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鉄道車両製造所[てつどうしゃりょうせいじょうしょ] 鉄道車両製造所(てつどうしゃりょうせいじょうしょ / 熱田鉄道車両製造所〔「230形蒸気機関車」(交通科学博物館)より。〕〔「230形蒸気機関車」(交通科学博物館)では「1900(明治33)年に熱田鉄道車両製造所が製造した180形蒸気機関車が民間第1号機」とあり、『日本の鉄道車輌史』(p43)では「民間メーカー製作の第一号SLは、正確には汽車製造会社ではなく、1896年に愛知県名古屋市に設立した鉄道車両製造所によるものであった。1900年に製作された180形式(省略)」とある。以上のことから「熱田鉄道車両製造所」と「鉄道車両製造所」は同一の企業であると推察される。〕)は、鉄道庁を辞職した〔明治26年3月27日退官、(井上勝退官の翌日)「叙任辞令」『官報』1893年3月28日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕野田益晴が1896年(明治29年)に名古屋で創業した鉄道車両メーカーで、日本の民間企業として初めて蒸気機関車を製造した企業である〔『日本の鉄道車輌史』(p43)より。〕。 俗に民間企業として日本で初めて蒸気機関車を製造した会社は汽車製造といわれているが、本製造所は1900年(明治33年)に徳島鉄道5号(後の鉄道院180形)を製造しており〔、それに対して汽車製造の1号機関車は1902年(明治35年)、台湾総督府鉄道向けのE30形であり、この俗説は誤りである。本製造所が製造した鉄道車両は、約500両と推定されている〔。 == 沿革 == 鉄道車輌製造所の設立にあたって管轄官庁の農商務省と愛知県知事の時任為基は、同時期に設立した日本車輌製造との競合をさけるべく両者に合同を勧めたが系列の違い(鉄道車両製造所は愛知銀行系、日本車輌製造は明治銀行系)により実現しなかった〔『驀進 - 日本車輌80年のあゆみ』12-13頁〕〔汽車製造業 明治29年3月27日 報知新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。 製造実績は、野田益晴が社長を務めていた七尾鉄道や九州鉄道、関西鉄道、徳島鉄道に客車を納入していたことがわかっている〔『日本国有鉄道百年史 4』132頁 「第8表 客車の供給工場」による〕、また客車82両貨車497両製造したとされている〔『明治工業史 9 機械編』314頁「第73表」「第74表」による 但しこのリストは国有化されなかった私設鉄道については対象外。また熱田車輌会社貨車11両としているが関連は不明。〕〔別府鉄道は国鉄より元関西鉄道2両と元九州鉄道1両の客車の払下げをうけ、海水浴や潮干狩り等の多客期のために1965年まで残していた。〕。しかし1900年(明治33年)前後の不況により注文は激減、加えて設立時からの内部対立が深刻化し取締役選任にあって反対派が提訴するなど表面化することになる〔「鉄道車輌会社事件」『東京朝日新聞』1901年9月16日(朝日新聞聞蔵2ビジュアル)〕〔『新修名古屋市史』第5巻、492-493頁〕。また支援していた愛知銀行は頭取が引責辞任する事態となった〔『驀進 - 日本車輌80年のあゆみ』21-22頁〕〔「取締役兼支配人田中喬樹はその責任を負ひ、明治34年1月28日辞任するのやむなきに至った」愛知銀行四十六年史〕。 こうして解散やむなしという状況の中1904年(明治37年)に陸軍省が工場を買収。東京砲兵工廠熱田兵器製造所で転用された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鉄道車両製造所」の詳細全文を読む
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