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爨龍顔碑(さんりゅうがんひ)とは、中国の南北朝時代、南朝の宋で大明2(458)年に建てられた地元豪族の墓碑。前代にあたる東晋の「爨宝子碑」とともに「二爨碑」と呼ばれ、こちらの方が大きいことから「大爨」とも呼ばれる。 紙による法帖が一般的な南朝にあって、瘞鶴銘と並び数少ない金石文として知られている。 碑は現在も雲南省曲靖市陸良県馬街鎮の爨一族の墓所と伝えられる地に残されている。 ==被葬者と建碑の事情== 被葬者である爨龍顔は正史に記録がないが、碑文によれば字を仕徳(しとく)といい、没年と推定される年から逆算すると東晋の太元9(384)年に建寧郡(現在の雲南省)に生まれた。 爨氏は三皇五帝の一人である顓頊の子孫であると自称している。これに従うと漢民族ということになるが、『新唐書』南蛮伝に「西爨白蛮」「東爨黒蛮」と見えることをはじめとして「南蛮」の一部族として名が見えることから、元から南方異民族の豪族であるという説もあり、その素性については定説を見ていない。いずれにせよ龍顔の父親は龍驤補国将軍・八郡監軍・晋寧太守・建寧太守であったといい、この地域の大豪族であったことをうかがわせる。 龍顔は極めてまじめで温厚な人柄であったといい、まさにこの地の有力者である「太守」の息子にふさわしい器量を備えていたという。寧州の刺史が主簿(書記官)職を命じようとしたところ応じず(拒否した理由は不明)、三回別駕従事史(補佐官)に命じられてようやく仕官した。その働きぶりは相当なもので、義煕10(414)年には州から朝廷に推挙されて郎中(省庁の中間管理職)となった。やがて軍人としての力も現わし、征西鎮将軍の幕僚として、また南蛮府の行参軍職になるなど、着実にその地位を上げていった。この頃には父と同じ建寧太守の職も得て、故郷に錦を飾ることとなった。また龍驤将軍・晋寧太守をも命じられ、多くの勲章を下賜されるなど、名目ともに地元の有力者としての地位を磐石とした。 東晋が滅び、宋となった後もその地位は安堵されたようで、元嘉9(932)年には領内の大理周辺で起こった反乱を見事鎮圧、南の名将として名を馳せるに至った。この頃には官位も既存の龍驤将軍の他、護鎮蛮校尉・寧州刺史・邛都県侯(「邛」は「功」のつくりをおおざとに変えたもの)となっていた。その後も龍顔は南方の名士としてこの地を統治し、丙戌年=元嘉23(446)年12月にその生を全うした。享年61。 当初龍顔の息子は父を讃えて碑を建てるつもりであったが、その途中で急死してしまった。このため跡を継いだ孫たちである次男の爨驎紹、三男の爨驎喧、四男の爨驎崇(長男は夭折)を筆頭に、州の協力を受けながら一族が自ら石を調達し、死から12年後の大明2(458)年9月に爨道慶の碑文によりこの碑を建てることになった。これが「爨龍顔碑」である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「爨龍顔碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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