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片切 景重(かたぎり かげしげ、生年不詳 - 平治元年12月27日(1160年2月6日))は、平安時代末期の武将。兵庫助源為行(片切源八)の子。信濃守源為公の曾孫にあたる。兄弟に為重、行心(片切禅師)、為綱、為遠、行実、宗綱(大島八郎)らがあり、子に為安がある。信濃国伊那郡片切郷を本拠とする豪族・片切氏(片桐氏〔「片切」はすでに「平治物語」「吾妻鏡」から「片桐」とも記されており、一般には区別されず、はやくから併用されていたようである。したがって景重の姓を片桐とするのは間違いというには当たらない。ただし当人たちがいずれかを是としたか否かは別問題。(『保元物語』には「方切」の当て字も見える)〕)の当主。仮名は小八郎大夫。 == 概要 == 河内源氏の郎党として源為義とその嫡子義朝に仕える。義朝に仕える以前に為義の家人であったことは、源氏(頼朝)方につくことを決めた橘公長が回想の中でかつて頼朝の祖父・為義(原文は「六條廷尉」)の御家人であった斎藤実盛・片桐小八郎大夫の両名と喧嘩を起こした際に為義本人が登場、まずいことになった、と恐怖する公長をかたわらに意外にも為義は斎藤・片桐をかえって諫めてくれた、その時の恩がある、という一節が『吾妻鏡』にみえていることから明らかである〔『吾妻鏡』治承4年(1180年)12月19日条〕。これがいつ頃の出来事であるのか定かではないが、為義の御家人は常々京の各地で諍いごとを起こしていたことから、公長が「怖畏を成す」に至ったのも不思議ではない。景重の若年もしくは壮年時代の人柄をしのばせる挿話である。 保元元年(1156年)の保元の乱では、長兄の為重が崇徳上皇方に与したとされる一方で〔『尊卑分脈』〕、景重は源義朝の郎党として後白河天皇方に参陣、『保元物語』には老将として奮戦する景重の姿が描写されている。
景重は続く平治の乱(平治元年(1159年))でも義朝の信頼厚い武士として従軍する。『平治物語』ではまず上巻・第十四章「源氏勢揃いのこと」の巻にその名がみえる。 続いて
また義朝の長子義平に従って平重盛の500騎の軍勢に切り込む東国武士の精鋭17騎の一人として戦ったことも、『平治物語』同巻にみえている。これは義平が平家嫡男との一騎討ちを求めて逃げる重盛を執拗に追う有名な場面である。
寡兵の義朝軍はやがて劣勢に陥るが、屈服を肯んじ得ない義朝・義平は最後の一戦を望んで六波羅に向かう。付き従う残存少数の武士の中に再び小八郎の名が見られる。
『平治物語』によれば、小八郎は再起を期す義朝・頼朝親子が東国に向けて敗退する時間を得るべく山内首藤俊通と共に必死の防戦に努めたが、敵の大軍に囲まれ六条河原で討死したという〔『平治物語』の異本の中には小八郎の討ち死にを記さない本もある。〕。
敵に囲まれた旧友・山内俊通が討たれるのを見た小八郎は、敵の大軍の真っ只中に踊り出て、名のある敵を斬って落としたのを皮切りに凄まじい戦いぶりを見せるが、太刀が真っ二つに折れるに至って己の武運が尽きたことを悟り、脇差を抜くと名のある敵と刺し違えた、というのである。主人のために身を捨てて大軍に斬り込み奮戦するも、運の極めを潔く受け入れよき敵と刺し違えるという小八郎の姿は、敵と切り結ぶその最中に太刀が真っ二つに折れるというドラマティックな描写と相まって、鎌倉時代の軍記物語の理想の武士像に近いと言えよう。〔錣は兜の下部から垂れて首を保護する部分のことであるが、小八郎はまず敵の首を露出させた上で接近し小太刀を突き刺した、と読むのが正しいようである。この細かい戦闘の描写は甲冑武者同士の戦いの現実について示唆することが多いと言えよう〕 片切(片桐)の家督は子の片切為安が継ぐが領地は平家によって没収された。25年が経ち、為安が鎌倉殿となった壮年の頼朝に歓待され小八郎の働きを回顧する頼朝によって所領を平家没官領として返還される著述が、『吾妻鏡』(1184年6月23日の項)に見られる。平家が京を追われた年である。
現在の長野県下伊那郡松川町にある小八郎岳は、景重がその頂に避暑地としての山城を築いたことからその名が付いたと云われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片切景重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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