|
片岡 光宏(かたおか みつひろ、1962年3月22日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。 == 来歴・人物 == 府中市立第二中学校卒業後、野々村直通の熱心な勧誘により〔「野々村直通インタビュー」『野球小僧』8月号増刊『高校野球小僧』2011年夏号、白夜書房、雑誌18802-8、137頁。〕広島県内の強豪チームの誘いを蹴って府中東高校(当時は市立)に入学。府中東高校はかつての北川工業高校(私立)時代には、高橋一三や伊原春樹らを輩出した広島県東部の強豪だったが、この頃は低迷し部員の大半が野球未経験者だった。野々村も片岡を勧誘してとれたことが僕の野球の出発点と話している〔。、3年生時の第51回選抜高等学校野球大会にエース、四番打者として出場するも、1回戦で高松商の中尾貴紀に完封を喫し大敗〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進出するが、永田利則のいた広島商に敗れる。 高校在学中は東京の創価高校へ練習に通い、同校監督稲垣人司の下で指導を受ける(稲垣の著書には、元々創価高校も片岡をリストアップしていたと記されている)。 甲子園では初戦で打ち込まれたものの大型右腕として評価が高く、1979年のドラフト会議では浪商高校の牛島和彦、市立尼崎高校の林泰宏と共に“高校三羽烏”と騒がれた。同年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。外木場義郎がつけていた背番号14を引き継ぎ期待されたが右ひじを故障したこともあり大成せず、に投手から内野手に転向となる。 に打者として一軍に再デビューし、代打中心に起用され同年7月11日の広島市民球場 (初代)での阪神戦では9回裏に代打サヨナラ本塁打を放つなど長打力の片鱗を覗かせる。同年8月15日、16日には小早川毅彦に代わって4番打者として先発出場した。当時監督の阿南準郎が将来の主軸打者として期待しに三塁手として起用されたが、ランディ・ジョンソンとの併用や守備の不安などでシーズン後半にかけて徐々に出番が減る。同年11月に斉藤浩行と共に本村信吾・片平哲也との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍となる。中日での在籍は1年にとどまり、10月に北野勝則との交換により横浜大洋ホエールズに移籍。大洋時代は腰痛に苦しみ結果を残すことはできず、11月に自由契約となり現役引退。 引退後は夫人の実家のある宮崎市内で広島風お好み焼き店を経営する傍ら、社会人野球クラブチーム・宮崎ゴールデンゴールズのゼネラルマネージャーも務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片岡光宏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|