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片桐 酉次郎(かたぎり ゆうじろう、文久元年6月19日(1861年7月26日) - 昭和13年(1938年)12月27日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍主計大監(主計大佐)。シーメンス事件において海軍の不正を糾弾し免官となる。代々幡町町長、衆議院議員。 ==生涯== 福島県出身。会津藩士で宮内省御歌所御用掛を務めた片桐嘉則〔『会津人物事典 (文人編)』「片桐嘉則」〕〔片桐嘉則は、名を善之助といった(『会津人物事典 文人編』「片桐嘉則」)。幕末の会津藩には160石を食んだ郡奉行、片桐善之助がいる(『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店)が、嘉則と同一人物かは不明。〕の二男に生まれ、片桐新一郎の養子となる〔『日本陸海軍総合事典』(第2版)「片桐酉次郎」〕。海軍主計学校3期生〔『海軍の「坊ちゃん」 太田三次郎』297 - 308頁〕で、1881年(明治14年)海軍省規定局雇として海軍に入る。造船造兵監督官として英国駐在を経て、「吉野」回航にあたる。この際に片桐は部下の主計官が結んだコミッションを含む契約を破棄させたという〔『海軍の「坊ちゃん」太田三次郎』217 - 218頁〕。日清戦争時は同艦の主計長であった。戦後呉造兵廠会計課長となるが、片桐によれば造兵廠には不正があり、それを正そうとしたところ左遷された。海軍省経理局2課、艦政本部などに配置され、1901年(明治34年)4月病により待命となる。1904年(明治37年)4月主計大監進級とともに予備役編入となった。1911年(明治44年)には原敬に面会し、海軍の冗費につき話をしている。1912年(明治45年)第11回総選挙で、東京府郡部から衆議院議員に当選。明治期の軍人出身国会議員は稀な存在で、この選挙の当選者は井上敏夫ら3名である〔『海軍少将から代議士に転じた井上敏夫』〕。片桐は中正会に所属した。 1914年(大正3年)1月23日、日本海軍軍人の収賄事件となるシーメンス事件の発覚をもたらす外電が報道された。2月3日、長く海軍大臣を務めた山本権兵衛内閣弾劾演説会が開催され、現役時代から海軍廓清を訴えていた海軍大佐・太田三次郎が『帝国海軍腐敗の真相』 と題する演説を行う。2月6日、国技館で島田三郎、河野広中、尾崎行雄らが参加する全国有志大会に出席した片桐は、海軍収賄の事実を認めたうえで以下のように演説している。 片桐は軍艦建造における職工費と材料費の不均衡をコミッションの生じる温床と指摘して、山本内閣の総辞職を求めたのである〔『帝国軍人の反戦水野広徳と桜井忠温』「汚職告発者 太田大佐の悲劇」〕。 片桐、太田は将校分限令違反に問われ大田は2月13日、片桐は2月28日に免官、勲記褫奪の処分を受けた。二人には全国から義援金が寄せられたが、両名とも固辞している。のち山本権兵衛内閣は総辞職し、海軍高官の収賄は法廷で明らかとなった。なお片桐は山本内閣の退陣をもって問題が解決されると考えていたわけではない。 その後の片桐は代々幡町の町会議員を2期、同町長を1期務めている〔『新修 渋谷区史』(中巻)〕。稚松会会員。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片桐酉次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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