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玉春日 良二(たまかすが りょうじ、本名:松本 良二(まつもと りょうじ)、1972年1月7日 - )は、愛媛県東宇和郡野村町(現在の西予市)出身で片男波部屋所属の元大相撲力士。身長183cm、体重157kg〔水野尚文・亰須利敏編著『平成22年版大相撲力士名鑑』共同通信社、2009年、250頁〕。最高位は西関脇(1997年7月場所)。得意手は突き、押し。現在は年寄・片男波。 趣味は音楽鑑賞、血液型はO型。 == 来歴 == 農家の六人兄姉の三男。松本の相撲との出会いは小学3年の時だった。野村町では毎年11月に乙亥大相撲が開催され同級生たちよりひと回り体の大きかったことで松本は必然的に地区の代表に選ばれた。それまで遊びですら相撲を取ったことはなく付け焼刃の稽古をして臨んだ相撲だったが蓋を開けてみれば対戦相手をなで斬りにする大活躍を果たした松本であった。この乙亥大相撲での活躍ぶりはすぐに野村町の相撲愛好会の面々の目に留まり、その後はしばしば稽古に連れ出される内に自然と相撲が体に染み付いていった。小学4年になるとわんぱく相撲の予選に出場し、県大会では上位に入って四国大会まで進んでしまった。同世代の中では巨漢であった松本は運動神経にも人並み外れたものが認められ、野村町立惣川中学校(現在は廃校)時代には大会がある度に水泳や陸上競技の砲丸投げ、走り幅跳びの選手として駆り出され、ことごとく好成績を収めた。一方で相撲でも活躍を果たし、3年時に部を全国大会団体戦ベスト16に導き個人では8位に入賞した。〔サイト10周年スペシャルコラム : 玉春日(愛媛県東宇和郡野村町出身)第1回「乙亥相撲で培った勝負魂」<1999年7月> 二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS 2009-06-01 20:31:00〕 中学卒業前には競技に対する劣等感から相撲に見切りをつけてラグビーに対する憧れから新居浜工業高等専門学校に進学しようと考えていたが春日館で相撲を指導していた兵頭洋和が松本の抜群の素質に惚れ込んだことから相撲の断念を慰留したことで「高校に行ったら髪を伸ばさせてほしい。相撲もやる代わりにラグビーもやらせてほしい」と条件付きながら野村高校への進学に至った。結果として高校時代は「相撲の稽古が厳しすぎて結局、ラグビーどころじゃなかった。髪も伸ばせなかった」ようであり、引退後に本人は「あのまま相撲を続けてよかった。現在の自分があるのも兵頭さんのお陰」と感謝しているという。抜群の素質は高校時代の切磋琢磨でさらに輝きを増し、当時から一徹した押し相撲の型を武器にインターハイでは1年生のころからベスト16に食い込み、2年の東西対抗では軽量級全国2位になった。〔サイト10周年スペシャルコラム : 玉春日(愛媛県東宇和郡野村町出身)第2回「本当は相撲が嫌いだった」<1999年7月> 二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS 2009-06-02 21:40:00〕 6人兄姉を育て上げた父の苦労を理解していた松本本人は兄姉の末弟として「これ以上迷惑はかけられない」と感じて大学進学を望まず高校卒業後は警察官になるはずだったが、活躍が認められて中央大学へ進学。大学では相撲部に所属し、3年時に1年先輩の栗本剛(後の十両・武哲山)と共に中央大学に34年ぶりとなる学生相撲団体戦日本一をもたらした。一方で個人では目立った活躍をしておらずタイトルは体重別大会(135kg未満級)1冠どまりであり、他に全日本相撲選手権でベスト8の実績を残した程度であった。〔サイト10周年スペシャルコラム : 玉春日(愛媛県東宇和郡野村町出身)第3回「雑草魂で前人未到の大記録達成へ」<1999年7月> 二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS 2009-06-03 19:50:00 〕学生時代に11冠を獲得したこともあってプロ入り前から活躍が期待されていた同じ中央大学の2年後輩である出島とは対照的な評価を周囲から下されており当時の中大監督の羽瀬重幸も「出島は確実に関脇にはなるが、玉春日は十両止まりかもしれない」と考えていた。玉春日自身も「どこまで通用するか分からない」と疑心暗鬼だった〔サイト10周年スペシャルコラム : 玉春日(愛媛県東宇和郡野村町出身)第4回「後輩・出島への挑戦状」<1999年7月> 二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS 2009-06-04 19:58:00〕が、プロになってから頭角を表した〔同上〕。 1994年1月場所、幕下付出で初土俵を踏む。初土俵から「玉春日」〔この四股名は野村高校在学時代の下宿先である相撲道場『春日館』に由来する。〕の四股名で相撲を取った。なお、学生時代の同期に武双山と土佐ノ海がいた。1994年1月場所を4勝3敗で終えてから自身に不足を感じ、一念発起して1日100番の猛稽古で鍛え直しを図った。 1995年3月場所に十両に昇進し、1996年1月場所には幕内に昇進した。初土俵から入幕まで負け越し知らずだった。その新入幕の場所では10勝を挙げ敢闘賞を受賞した。1997年5月場所では、横綱・貴乃花を破る初金星を挙げて8勝7敗と勝ち越し、殊勲賞を受賞し、翌7月場所には関脇への昇進を果たした。その場所は7勝8敗と負け越し、関脇はこの1場所だけで、以後2度の小結を経験するも、三役での勝ち越しはなかった。それでも、全盛期には幕内上位の地位で7個の金星を挙げるなど、上位キラーとして活躍した。しかし、2003年1月場所に右膝の半月板を痛めて休場し幕内から陥落した後は、怪我にも悩まされ幕内中下位や十両に甘んじることが増えた。 2006年7月場所では、本来の押し相撲が久々に鋭さを見せ、11勝4敗の好成績で技能賞を受賞した。この三賞受賞は前述した1997年5月の殊勲賞受賞以来55場所ぶりとなったが、これは史上最も2回の三賞受賞の間隔が開いた事例となった。また、この場所は幕内で初めて11勝をあげた〔この場所では、同部屋弟弟子の玉乃島も11勝を挙げ、こちらは敢闘賞を受賞している。〕。しかし、東前頭4枚目に昇進して久々の幕内上位となった翌9月場所は初日から12連敗で、1勝14敗と散々な成績だった。2007年1月場所は鋭い突き押しで初日から7連勝し、一時は優勝争いの先頭に立ったが、中日から6連敗を喫し、結局9勝6敗に終わった。3月場所は2日目から9連敗を喫するなど一転して不調に陥り4勝11敗だった。その後は首の痛みもあり幕内の中位〜下位を行き来していたが、十両に下がった2008年9月場所の千秋楽に引退を表明し、年寄・楯山を襲名した〔玉春日が引退、年寄「楯山」を襲名 スポニチ 2008年09月29日配信〕。引退相撲は2009年5月30日に行われた。その後、2010年2月4日に師匠である玉ノ富士茂との名跡交換により年寄・片男波(14代目)を襲名すると共に、片男波部屋を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉春日良二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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