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牛久城(うしくじょう)は、茨城県牛久市城中にあった日本の城。 == 概要 == 牛久城は、城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。 下妻の多賀谷氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。しかしながら、牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。 そして、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後の元和9年(1623年)に牛久城は廃城になった。 その後、江戸時代に入り寛永5年(1628年)に山口重政が一万五千石で牛久に封じられ、牛久藩が成立する。そして、2代藩主山口弘隆によって寛文9年(1669年)に旧牛久城外郭内の西端、牛久沼に接する標高約20mの台地の端に新たに牛久陣屋が築かれ、以降幕末に至る。 現在は、外郭部は開発の手が入り保存状態はよくないが、一部に空堀および土塁が残る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牛久城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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