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牟羽可汗 : ウィキペディア日本語版
牟羽可汗[ぼううかがん]
牟羽可汗(ぼううかがん、拼音:Móuyŭ/Mùyŭ Kĕhàn、? - 779年)は、回鶻可汗国の第3代可汗葛勒可汗の子。氏は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は移地健。初めは牟羽可汗(ブグ・カガン)もしくは登里可汗(テングリ・カガン)と称したが、に入朝した際に英義建功毘伽可汗(えいぎけんこうビルゲカガン〔ビルゲ・カガン(Bilgä qaγan)とは古テュルク語で「賢明なる可汗」の意。しかし、『旧唐書』の説明で「毘伽」は「足意智」の意としている。〕)の称号を授かった。
==生涯==
葛勒可汗の子として生まれる。
乾元2年(759年)4月、葛勒可汗が死去し、長子の葉護(ヤブグ)は先に殺されていたため、次子の移地健が立って牟羽可汗となり、その妻である僕固懐恩の娘が可敦(カトゥン:皇后)となった。8月、前可敦の寧国公主は子がなかったのでに帰国することとなった。
上元元年(760年)9月、牟羽可汗〔『旧唐書』では「迴紇九姓可汗(ウイグル・トクズオグズ・カガン)」とある。〕は大臣の俱陸莫達干〔『新唐書』では「俱録莫達干」。〕(キュリュグ・バガ・タルカン)らに入朝させて奉表させた。
上元2年(761年)2月、安史の乱指導者である史思明が子の史朝義によって殺される。
宝応元年(762年)4月、唐で粛宗崩御したため太子代宗が即位した。代宗は史朝義がなおも河洛の地にいるので、それを討伐するために劉清潭を回紇に派遣して徴兵させるとともに、旧好を修めさせようとした。しかし8月、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」と牟羽可汗を誘ったため、回紇軍が大軍を擁して南下を始めた。劉清潭はそれに遭遇したので、まず唐への侵攻を踏みとどまるよう牟羽可汗を説得したが聞き入れられなかった。このとき回紇軍はすでに三城の北まで到達していた。牟羽可汗は使者を派遣し、北方の単于都護府の兵馬と食糧を奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱した。劉清潭が密かにこの状況を代宗に報告すると、朝廷内は震撼した。
時に牟羽可汗の可敦である僕固氏は、唐にいる父と祖母に会いたいと言い出したので、父の僕固懐恩が太原へ赴き、そのついでに牟羽可汗を説得してやった。すると、ようやく牟羽可汗は思いとどまり、回紇軍の進軍が止んだ。そこで引き続き回紇軍は賊軍(史朝義)討伐に参加することになり、牟羽可汗は兵馬元帥の雍王李适や御史中丞の薬子昂らと面会した。しかし、ここで可汗が拝礼をするとかしないとかで両者の間で言い争いが起き、回紇の車鼻将軍が薬子昂、李進韋少華魏琚を引っぱり出して、おのおの百回棒で打った。韋少華と魏琚は棒で打たれたのがもとで一晩たって死んだ。これにより、雍王の李适はまだ若造で物事を十分に心得ていないという理由で放免され、本営へ還った。
ということもあって僕固懐恩が回紇の右殺(右シャド:官名)とともに先鋒となり、諸節度たちとともに賊軍を攻撃して破ったため、史朝義は残党を引き連れて逃走した。牟羽可汗は引き続いて河陽(現在の河南省孟県)に進軍し、幕営をならべて数ヶ月ここに駐屯した。この時、幕営より百余里のあいだでは、人々が回紇軍の掠奪と凌辱をうけ、その害悪に堪えきれなかったという〔回紇軍が東京(洛陽)に来ると、彼らは賊が平定されたことを理由に、ほしいままに残忍な振る舞いをしたので、男女はこれを恐れて、みな洛陽の聖善寺白馬寺の2閣へ登って避難した。回紇軍は火を放って2つの寺を焼き払ったので、死者は1万人を数え、数10日間も火焔はやまなかった。こういうことがあったが、このときに回紇は朝賀して、思うままに官吏を侮辱して痛めつけた。そこで朝廷は陝州節度使郭英乂を臨時に東都の留守番に任命した。そのときに東都は再び賊(史朝義軍)の侵略を受けたが、朔方軍および郭英乂、魚朝恩らの軍隊は暴動を禁止することができず、回紇軍とともにほしいままに城中および汝州鄭州などを掠奪し、立ち並ぶ家屋は焼き尽くされ、その結果、人々はことごとく紙で衣服を作り、なかには経典の紙を衣服にする者もあったという。〕。僕固懐恩は常に軍の殿軍となった。節度使たちが河北の州県を占領すると、息子の僕固瑒は回紇の部衆とともに2千余里も追跡し、平州の石城県で史朝義の首を梟して帰り、ついに河北はことごとく平定された。
そこで代宗は、宣政殿に臨御して冊文を出し、牟羽可汗に称号を加えて登利頡咄登密施含倶録英義建功毘伽可汗(テングリデ・クト・ボルミシュ・イル・トゥトミシュ・アルプ・キュルグ・ビルゲ・カガン)〔テングリデ・クト・ボルミシュ・イル・トゥトミシュ・アルプ・キュルグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä bolmiš il itmiš bilgä qaγan)とは「天より授かりし国を建てたる賢明なるカガン」という意味である。〕とし、可敦にも称号を加えて娑墨光親麗華毘伽可敦とした。このほか左右の殺(シャド),諸都督,内外宰相以下も、共に実封2千戸を加えられることとなり、左殺は雄朔王、右殺は寧朔王、胡禄都督は金河王、拔覽将軍は静漠王に封じられ、諸都督11人が封国公となった。
広徳2年(764年)、僕固懐恩が叛き、吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度の郭子儀によって防がれた。翌年(765年)秋、僕固懐恩は回紇,吐蕃,吐谷渾党項奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。しかし僕固懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、回紇首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて涇陽の郭子儀もとへ請降しに来た。これ以降、回紇と唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766年 - 779年)において社会問題となった。
大暦3年(768年)、光親可敦が卒去し、代宗は右散騎常侍蕭昕に節を持たせて弔問させた。明年(767年)、僕固懐恩の娘を崇徽公主として牟羽可汗に嫁がせ、兵部侍郎李涵に節を持たせて可敦に冊拝した。
大暦13年(778年)1月、回紇はついに太原を寇し、榆次・太谷を過ぎて河東節度を留めた後、太原尹・兼御史大夫鮑防は回紇と陽曲で戦ったが敗北し、死者は千余人にのぼった。代州都督張光晟は回紇と羊武谷で戦い、これを破り、回紇軍が撤退した。
大暦14年(779年)、代宗が崩御し、徳宗が即位した。徳宗は中官の梁文秀に回紇へ赴かせ、両国の関係を修復させようとした。しかし、牟羽可汗は礼をなさないばかりか、九姓胡(ソグド人)の大臣を重用し、その勧めで唐の喪中に乗じてふたたび唐へ侵攻しようとした。その時、宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)は牟羽可汗を諫めたものの、聞き入れてもらえなかったので、牟羽可汗とその近親者および九姓胡(ソグド人)ら2千人を殺害し、自ら立って合骨咄禄毘伽可汗(アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン)と号し、その酋長の建達干を唐へ入朝させたので、武義成功可汗の称号を賜った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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