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牧田与一郎 : ウィキペディア日本語版
牧田與一郎[まきた よいちろう]
牧田 與一郎(まきた よいちろう、1903年1月15日 - 1971年12月7日)は日本実業家三菱重工業社長として三菱グループを指導し、三菱自動車工業を設立。「牧田天皇」〔草柳大蔵『実力者の条件』p.196(文藝春秋社、1970年)〕「横紙破り」〔草柳大蔵『実力者の条件』p.192(文藝春秋社、1970年)〕「赤鬼のオマキ」〔と呼ばれた。
== 生涯 ==
静岡県で代々続く材木商の家に生まれる。鷹狩で道に迷った徳川家康駿府城下に導いた木こりの親方が、この功により大鋸町(現・静岡市葵区大鋸町)を賜り、そこに材木屋を開いたのが牧田家の祖先であるとの言い伝えがある〔草柳大蔵『実力者の条件』p.198(文藝春秋社、1970年)〕。
静岡市立東尋常小学校、旧制静岡中学校から四年修了で第四高等学校に進み、1925年東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、三菱商事に入社するも、反抗的な性格ゆえに上司と喧嘩を繰り返し、1935年以降、ドイツイギリスフランスイランイラクに左遷される。当時、海外支店から帰ってきた歓迎会の席上で人事部の幹事と口論になり、相手を二階の欄干から投げ落とすほどの暴れん坊ぶりだった〔草柳大蔵『実力者の条件』p.189(文藝春秋社、1970年)〕。機械部に在職中は猛烈に技術書を読み、後年、三菱日本重工業(現・現三菱重工業)会長の桜井俊記をして「なまじっかなエンジニアよりも機械や技術体系に詳しい」と言わしめた〔草柳大蔵『実力者の条件』p.203(文藝春秋社、1970年)〕。
帰国後、荘清彦(のち三菱商事社長。與一郎のテニスメートである岩崎彦弥太の学友)の計らいで1938年に三菱重工業へ移り、岡野保次郎(のち三菱重工社長)の預かりの身分となってから頭角をあらわし、1945年、第十一製作所総務部長となる。名古屋機器製作所営業部長、同副所長を経て、1950年に機器部長。1953年、機械部長に就任。1956年経済同友会幹事となる。1964年、三菱重工業専務。1965年、三菱重工業副社長。
1966年から1967年にかけて、四男・牧田吉明(当時成蹊大学在学中)が新左翼過激派活動に関わったために教授会から呼び出しを受けたが、これに対して與一郎は「息子の喧嘩に親が出られるか!」と一切の介入を拒んだ。
1969年から三菱重工業社長。牧田を社長にすることを決定したのは、三菱グループの社長の集まり「金曜会」の世話人会の面々、すなわち藤井深造(三菱重工業初代社長)、田実渉三菱銀行頭取)、河野文彦(三菱重工業会長)、藤野忠次郎(三菱商事社長)であった〔草柳大蔵『実力者の条件』p.194(文藝春秋社、1970年)〕。吉明が背叛社火薬暴発事件(1968年10月6日)に関わって逐電していた時期には、父親としての責任を取るために社長辞任を真剣に考えた。
1970年、米国クライスラー社との提携によって自動車部門を強化独立させ、三菱自動車工業を設立。社長在任中に病死。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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