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牧野 忠敬(まきの ただたか)は、越後長岡藩の第6代藩主。長岡藩系牧野家宗家7代。 == 生涯 == 享保14年(1729年)6月、日向延岡藩主・牧野貞通の長男として延岡で生まれる。享保15年(1730年)に江戸幕府への嫡子届け提出により貞通の嗣子となる。 長岡藩第5代藩主・牧野忠周が病弱であったので、元文4年4月28日(1739年)に両藩の合意により長岡藩嗣子になることが決定し、6月6日に忠周の養嗣子となり、6月15日に通称を兵部から老之助に改名し、西窪の長岡藩江戸藩邸上屋敷に移る。寛保3年(1743年)12月に従五位下、駿河守に叙任する。また、延岡藩では弟の貞隆が嗣子になった。 延享2年(1745年)に忠周の妹で養女の直姫と婚礼を上げ、同3年(1746年)4月4日、忠周が隠居したため、家督を継いだ。 幕政上は江戸城西の丸大手門守備や朝鮮通信使接待、松平広忠の200回忌の将軍代参を勤める。また、牧野忠辰以来の事業で遅々として進まない牧野家系図及び家譜などの諸記録編纂を、延享3年12月に山本勘右衛門に命じる。 しかし延享5年(1748年)6月29日、治世3年にして江戸で死去した。享年20。 家督は実父の貞通を交えた相談の結果、実弟の忠利が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牧野忠敬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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