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牧野 成貞(まきの なりさだ、寛永11年11月29日(1635年1月17日) - 正徳2年6月5日(1712年7月8日))は、上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。越後長岡藩主、三河牧野氏の支族。成貞系牧野家初代。 == 年譜 == * 寛永11年11月29日(1635年1月17日)、旗本、書院番頭・牧野儀成(成儀とも)の次男として生まれる。母は朝倉宣正の娘(朝倉在重の娘とも)。父の儀成は、越後長岡藩主・牧野忠成の弟で、上野大胡藩主・牧野康成の三男であった。 *慶安2年(1649年)、徳川綱吉に初見 *慶安3年12月19日(1651年2月9日)、元服。 *万治3年(1660年)、第3代将軍・徳川家光の庶子・徳川綱吉の側衆となり、綱吉が住んでいた神田の屋敷に出仕する。翌年に綱吉が上野館林藩主として分家すると、綱吉の奏者番として仕えた。 * 寛文7年(1667年)、長女・松子誕生。 * 寛文8年(1668年)、徳川家綱に初見。 * 寛文9年(1669年)、次女・安誕生。 * 寛文10年(1670年)12月、家老に抜擢される。知行3,000石。 * 寛文11年(1671年)、三女・亀誕生。 * 延宝8年(1680年)5月 * 綱吉が将軍世子として徳川将軍家に呼び戻されると〔ただし舘林藩主の綱吉は江戸に在府しており、舘林には将軍家綱に付して日光に参拝した帰り、生涯ただ一度のみである。〕、成貞もこれに従い綱吉側衆となる。 * 4代将軍・徳川家綱の死後、常陸国内1万3,000石の大名(城主)となる(後に2万石加増)。 * 天和元年(1681年)、「御側御用人」に任じられた。これが江戸幕府で初めての側用人という役職であり〔ただし、江戸時代初期には、徳川家康に5,000石級の旗本である秋元泰朝と松平正綱が近侍しており『藩翰譜』では「御近習出頭役」と呼ばれていた。(笹間良彦『江戸幕府役職集成』雄山閣出版 1999年11月)〕、以後は綱吉の最側近として初期の綱吉政権を支える。 * 天和3年(1683年)、下総関宿藩に移封され、下総国(葛飾、相馬、猿嶋、岡田郡)、武蔵国、常陸国あわせて2万石加増の5万3,000石を領する。官位も従四位下備後守・侍従に昇る。 * 貞享元年(1684年)、大老・堀田正俊が暗殺されたのを機に、老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられたため、将軍と老中の仲介役として側用人の成貞が大きな力を持つようになる。 * 元禄元年(1688年)、和泉、下総、常陸、下野の計7万3,000石に封ぜられる。 * 貞享5年(1688年)4月21日から牧野邸へ綱吉が赴くことが増える(のべ32回、うち桂昌院同伴13回、また桂昌院単独は別に3回)。 * 元禄6年(1693年)10月27日、隠居を願いでる。 * 元禄8年(1695年)11月29日、隠居をして成春に家督を譲る。家督を相続してまもない成春に、綱吉は特別な功労がないにもかかわらず7,000石を加増し、三河吉田藩に転封を命じた。隠居後の成貞に対する加増とみることができる。 * 正徳4年6月5日(1712年7月8日)に死去、享年79。戒名は長威虎雪東光院。墓所は東京都墨田区千歳の要津寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牧野成貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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