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牧野忠成 (越後長岡藩二代)[まきの ただなり] 牧野 忠成(まきの ただなり、寛永12年(1635年) - 延宝2年5月27日(1674年6月30日)は、越後長岡藩の第2代藩主。長岡藩系牧野氏宗家3代。牧野光成の長男。母は本多俊次の娘。官位は従五位下、飛騨守。幼名老之助。初名は忠盛。父・光成が祖父・忠成の家督を相続前に死去したので、祖父の後嗣となった。祖父と同名を名乗ったので、長岡ではのちにこの第2代藩主を後忠成公とも呼び慣わしている。 == 生涯 == 寛永12年(1635年)、牧野光成の嫡男として生まれる。寛永14年(1637年)に父・光成が早世したため、祖父・忠成の後嗣となる。寛永16年(1639年)10月、江戸城に登り初めて将軍家光の御目見得を受けた(5歳)。慶安4年(1651年)10月18日従五位下飛弾守に叙任(17歳)。 承応3年12月(新暦1655年1月)に祖父・忠成が没した。明けて明暦元年2月16日(新暦1655年3月23日)に祖父の遺領相続を許された(21歳。嫡孫承祖だが襲封までには子細が有った、経緯は末節を参照のこと)。同3月7日(新暦4月13日)襲封御礼の登城の節に家臣二人(稲垣平助・山本帯刀)が忠成に伴い将軍御前に出づることを許され、以後は襲封御礼の際の恒例となる。同9月、朝鮮使が来日し、その迎馬のための鞍を三州三島まで送り届けた〔忠成、明暦元年9月、朝鮮使に鞍を贈る。→参考文献の1、62頁。〕。明暦2年(1656年)初めて城地長岡に行く許しを受けた。明暦3年(1657年)、台命により明暦の大火後の江戸城平河口の修理の任にあたり、同11月13日竣工、家臣等に時服・白銀を賜る。延宝2年5月27日、江戸藩邸で40歳にて死去した。法名は、超雄院殿尊誉利岳乗英〔二代忠成の履歴→参考文献の2、269頁〕。
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