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物吉 : ウィキペディア日本語版
物吉[ものよし]
物吉(ものよし)とは、江戸時代17世紀 - 19世紀)の被差別民の一つ。門付をして金品を乞うことを生業とした〔''物吉''大辞林 第三版コトバンク、2012年8月23日閲覧。〕〔''物吉''デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月23日閲覧。〕〔、2012年8月23日閲覧。〕。生まれながらの賎民ではなく、ハンセン病などの疾病や、事故などで著しく容姿が変形した人々の集団であった。祭事の際に「物吉」(縁起がいいという意味)と叫びながら物乞いをした〔〔。
== 略歴・概要 ==
「物吉」は、その語の第一義的には「めでたいこと」を意味する祝福のことば、掛け声である〔〔。「物吉」たちは、人家の門前に立って、報酬を目的として祝い言を叫んだ〔〔。
江戸時代初期の1603年 - 1604年(慶長8年 - 同9年)の時期に、長崎学林が刊行した『日葡辞書』には、「モノヨシ」イコール「ハンセン病」であると定義されているが〔〔、これは、当時すでに、同病の罹患者たちが「物吉」的活動を行っていたことを意味する。大阪を中心とした関西地方でおもに活動したとされる〔。
京都では、「物吉」は、中世(12世紀 - 16世紀)期には清水坂(現在の京都市東山区清水)の非人宿の最末端に所属したが、江戸時代に入ると、清水坂から分離され「物吉村」と呼ばれる塀に閉ざされた空間に隔離されるようになる〔1907年「癩予防ニ関スル件」 厚生労働省、2012年8月23日閲覧。〕。「物吉村」の内部にあった長棟堂清円寺があり、梅の名所とされ、「物吉」たちは敷地内で畑作・わらじ製造、節句に市内を門付して生活した〔。同寺は1872年(明治5年)に廃寺となる。奈良では、「物吉」たちは北山十八間戸西山光明院に分かれて居住していた〔。
『加賀藩史料』によれば、加賀藩(現在の石川県ほか)では、「物吉」は乞食ではなく、七兵衛という人物が代々この集団を統率していた、という旨の記述が、1693年6月(元禄6年5月)の「異種徒取調書」にあるとしている〔加賀藩、p.220-221.〕。しかし当初は祝い事の際に武家や町方に祝儀を受けて生活していたが、次第に配下の「物吉」が増加し、それだけでは生活が成り立たなくなり、「乞食札」を受けての乞食活動を行うようになったという〔。同藩における「物吉」の身分の呼称は「」(かつらい)であり、すなわち「かったい」であり「乞児」(ほかいびと、祝い言を発して金銭を乞う者)であるとした〔。定住者ではない無宿のハンセン病患者が現れた場合は、この「乞食札」を発行して「かったい」(物吉)集団に引き渡して管理させたという〔。同藩では、当時信じられていたように、ハンセン病の家は代々ハンセン病であると考え、「物吉」の家系はハンセン病者を起源とするものであって、「穢多」「非人」とは系統が異なると記述している〔。
身分としての「物吉」は、19世紀後半の明治政府によって廃止されている。かつて「物吉」たちが患った「ハンセン病」についても、現在は不治の病ではなく、1996年(平成8年)4月1日に「らい予防法」を廃止、2009年(平成21年)4月1日には「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)も施行され、日本のハンセン病問題は解決に向かっている〔、2012年8月23日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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