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石上 麻呂(いそのかみ の まろ、舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月22日))は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。麻呂は麿とも書く。氏姓は物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。大華上・物部宇麻乃の子。官位は正二位・左大臣、贈従一位。 壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の側につき、皇子の自殺まで従った。のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき、筑紫総領になった。701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられた。717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。 なお、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされる。 == 生涯 == === 天武・持統朝から文武朝前半まで === 物部麻呂が史書に現れるのは、天武天皇元年(672年)壬申の乱の終局である。物部麻呂は大友皇子(弘文天皇)の側にいた。戦争での活躍は伝えられないが、大友皇子が敗走して7月23日に自殺するまで、物部連麻呂は一、二の舎人とともに最後までつき従った。 天武天皇5年(676年)10月10日、大乙上物部連麻呂は大使となって新羅に赴いた(小使は山背百足)。この頃新羅と日本は使者の往来を頻繁に行っており、11月3日には入れ違いで金清平らが新羅から来日、23日には高麗(高句麗復興をめざす亡命政権)の使者を送って新羅の金楊原が来日した。麻呂は翌年2月1日に新羅から帰国した。 敗者になった麻呂が、天武天皇に起用された理由は、最後まで従った忠誠を評価されたためではないかと言われる。また、同族の朴井雄君が大海人皇子側で勲功を挙げた事で物部一族への処分が軽微に留まったとする意見もある。雄君はこの年6月に亡くなって死後に氏上と認められた。 天武天皇13年(684年)11月1日、物部連は他の多数の臣姓の氏とともに朝臣の姓を与えられた。この頃に氏の名を石上と改めたらしい〔木本『律令貴族と政争』10-12頁。〕。朱鳥元年(686年)9月28日、天武天皇の葬儀において、直広参の石上朝臣麻呂が法官のことを誄(おくりごと)した。これにより以前に法官で勤務したことがわかる。 持統天皇3年(689年)9月10日、石上麻呂と石川虫名は筑紫に派遣され、位記を送り届けた。石上朝臣麻呂の位はこのときも直広参であった。持統天皇4年(690年)1月1日、持統天皇即位の儀式で、物部麻呂朝臣が大盾を立てた。文武天皇4年(700年)10月15日に、直大壱石上朝臣麻呂は筑紫総領になった。 大宝元年(701年)3月21日に、大宝令にもとづく官位が授けられたとき、中納言直大壱石上朝臣麻呂は正三位・大納言に進んだ。〔『日本書紀』による。『公卿補任』では、大宝元年(701年)3月19日に中納言に任命され、同日に従三位になったが、3日後の21日に大納言・正三位に進んだとする。〕 同年7月21日、多知比島が死んだ。このとき正三位石上朝臣麻呂は刑部親王とともに島の家に赴き、天皇からの贈り物を渡した。大宝2年(702年)8月16日に、正三位石上朝臣麻呂は、大宰帥になった。大宝3年(703年)閏4月1日に右大臣の阿倍御主人が死んだとき、正三位石上朝臣麻呂は弔いと贈り物をする使者になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石上麻呂」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Isonokami no Maro 」があります。 スポンサード リンク
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