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猪口敏平[いのぐち としひら]
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦「武蔵」最後の艦長として知られる。 == 経歴 == 鳥取県鳥取市出身。大工棟梁・猪口鉄蔵の長男として生まれる。鳥取中学校(現鳥取西高校)を経て、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業し、翌年8月、海軍少尉任官。海軍砲術学校の高等科、専攻科で学んだ。戦艦「日向」分隊長、砲術学校教官、軽巡洋艦「鬼怒」砲術長、第2水雷戦隊参謀、砲術学校教官、戦艦「扶桑」砲術長、連合艦隊参謀、軽巡「球磨」副長、砲術学校教官などを歴任し、1939年(昭和14年)11月、海軍大佐に進級した。同じく海軍軍人であった弟の猪口力平との区別のため、海軍内では兄は『口敏(チョコビン)』、弟は『口力(チョコリキ)』と呼ばれていた。 以後、給油艦「石廊」艦長を経て、太平洋戦争開戦時は砲術学校教頭。『キャノン・イノグチ』という名前で海外にも知られる程の砲術理論の権威で、軽巡「名取」重巡洋艦「高雄」の各艦長、横須賀鎮守府付、横須賀砲術学校教頭などを経て、1944年(昭和19年)8月、戦艦「武蔵」の第4代艦長に就任し、同年10月15日、艦長在任のまま海軍少将に進級。世界でも珍しい「提督艦長」となる。10月24日、レイテ沖海戦において、戦闘中に負傷した後、乗艦「武蔵」はフィリピンのシブヤン海で撃沈され、猪口艦長は退艦せず「武蔵」と運命を共にした。戦死後に1階級特進し、海軍中将となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「猪口敏平」の詳細全文を読む
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