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猪熊教利[いのくま のりとし]
猪熊 教利(いのくま のりとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家。父は権大納言四辻公遠〔とも山科教遠(言経の子)〔『系図纂要』〕とも伝えるが、前者の説が有力である。猪熊事件の首謀者。初名は範遠(のりとお)。
==経歴== 初め高倉範国の養子となり、中絶していた高倉家の跡を継ぐ。天正13年(1585年)5月に叙爵。同20年(1592年)1月侍従に任じられ、慶長2年(1597年)1月従五位上に叙される〔『歴名土代』〕。山科言経が勅勘を蒙って摂津に下った後、教利は山科を称していたが、同3年(1598年)徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため、翌4年(1599年)5月勅命により山科を改めて猪熊を家名とした〔『御湯殿上日記』同年5月17日条〕。家名は平安京の猪熊小路に由来するか。同5年(1600年)1月左近衛少将、2月正五位下に叙任〔。同6年(1601年)には県召除目で武蔵権介に任じられ〔、家康から200石を安堵されている〔『京都諸知行方目録』〕。 教利は天皇近臣である内々衆の1人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりするなど、芸道にも通じていた。勅命で鷲尾隆康の日記『二水記』を書写したほか、政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねたこともある〔『言経卿記』・『慶長日件録』〕。 一方、教利は在原業平や『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった〔『校合雑記』〕。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」〔『当代記』〕と称されていたという。慶長12年(1607年)2月突如勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸などに誘っては女官と不義密通を重ねた。 慶長14年(1609年)7月、女官5人と烏丸光広ら公家7人との密通が露顕した(猪熊事件)。詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていたことが明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任。8月4日幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕まえ次第京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は当時かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡。一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう〔『角田文書』〕。しかし、同月中に潜伏先の日向国で延岡城主高橋元種により捕縛される。9月16日京都に護送後は二条に収監され、10月17日常禅寺で斬刑に処された。享年27。猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟嗣良が再興した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「猪熊教利」の詳細全文を読む
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