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猪飼野(いかいの)は、大阪府大阪市東成区・生野区にまたがる、平野川旧河道右岸一帯の地域名称。 旧東成郡鶴橋町の大字のひとつで、住居表示の実施(1973年)前には猪飼野大通・猪飼野西・猪飼野中・猪飼野東の町名があった。現在の東成区玉津・大今里西の各一部、生野区中川西の全域および鶴橋・桃谷・勝山北・勝山南・舎利寺・中川・田島の各一部に当たる。 == 歴史・概要 == 古代・仁徳天皇の時代に、多くの「渡来人」がこの地にやってきた。特にこの地域は百済からの渡来人が多く古くは「百済郡」と呼ばれていた。その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となる。 古墳時代から飛鳥時代初期にかけては物部氏の勢力下にあったが、蘇我氏との抗争に敗れた後は四天王寺の領地となった。その後、中世にかけては四天王寺の荘園地となり、猪養野荘(いかいのしょう)と呼ばれた。 近世においては、初期を除き、天領として江戸幕府が直轄支配した。慶長年間に行われた検地では石高千六十石。 大和川の付け替え後は井路川水路となった平野川沿岸の村が加入する用水組合に加入していたが、最末端だったため水不足の折りは水がまわらなかった時もあった。 近代以後は、この地は大阪有数の農村であり、大阪中心部への野菜の供給地であった。しかし、日露戦争や第一次世界大戦時の好景気を反映してこの地の周辺に住宅や工場の立地が相次いだ。また、農地を住宅地に転換する地主や耕作をやめて働き勤めをする小作人も増えてきた。こうした中、大正8年(1919年)ごろに地域内の地権者により「鶴橋耕地整理組合」が結成され、民間主導で農地の整理と下水道の整備が行われた。この時にこれまでくねくねと曲がって流れていた平野川をまっすぐに付け替える改修工事が行われた。当時、大阪 - 済州島間直行便が就航したことを背景として朝鮮民族が大量に渡航してきた。これを機にこの地域に在日韓国・朝鮮人の人口が急増する〔塚﨑昌之「前期の鶴橋署と朝鮮人−ゴム工労働者の7回のゼネスト計画をめぐる闘争を中心にして− 」青丘文庫研究会月報 2011年9月1日〕。農地だった場所は新平野川水路を中心に区画整理され、農地として有効利用されるのではなく、急速に市街地化していった。 耕地整理事業終了後もこの地にとどまり、太平洋戦争を経て、この地に根ざした在日韓国・朝鮮人によってコリアタウンが形成されていった。済法建親会は、済州島の法還里(법환리、ポパニ、現在の西帰浦市法還洞)出身者の団体で、1929年に三益ゴムを経営していた康興玉が組織した済法青年会の後継団体である〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「猪飼野」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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