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敬懿皇貴妃(けいいこうきひ、1856年7月2日 - 1932年2月5日)は、清の同治帝の側妃。姓はヘシェリ(赫舎里)氏。号は「懶夢山人」。知府の崇齢の娘。聡明機敏で、書画に通じた。 同治10年(1872年)、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格する。9月、同治帝の後宮に入って「瑜嬪」となった。 光緒帝の即位後、瑜妃に尊封された。光緒20年(1894年)、西太后の大寿(60歳)の祭典で瑜貴妃に尊封された。光緒26年(1900年)、八カ国連合軍の北京への侵入の際、西太后は西安に逃がれ、瑜貴妃は混乱する後宮の事務を取り仕切ったが、これに対する褒賞はなかった。宣統帝の即位後、瑜皇貴妃に尊封された。同治帝の側室として、隆裕皇太后(光緒帝の正室)と権力を争ったが敗れた。 宣統帝の退位後、清室から敬懿皇貴妃と尊称された。端康皇貴妃(光緒帝の側室)が四太妃のなかで主導的地位につき、紫禁城の奥向きを取り仕切った。 1924年10月に起きた北京政変の後、馮玉祥と孫岳は清室優待条件の一方的な破棄を通達し、敬懿皇貴妃は宣統帝たちと共に紫禁城から追放された。 1932年2月5日(大晦日)に北京の麒麟碑胡同の宅邸で薨去し、恵陵の妃園寝に陪葬された。その後、満州国朝廷により献哲皇貴妃と諡された。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「敬懿皇貴妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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