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猿沢 茂(さるさわ しげる、1960年1月30日 - )は広島県安芸郡府中町出身の元サッカー選手(MF、FW)。 ==来歴== 府中中学に入学後から本格的にサッカーをはじめ、1年次からセンターフォワード(CF)として活躍〔先輩に金田喜稔。〕。2年次には中国大会優勝を飾った。また、中学時代に広島大河FCに入ってプレーしている〔木村和司、沖宗敏彦らとプレーしている。〕。 県立広島工業高等学校(通称・県工)時代〔二年上に金田喜稔、石崎信弘、一学年上に木村和司、同級生に沖宗敏彦、沖野隆幸、中本邦治らがいる。〕は高校1年次からCFとしてレギュラーとなり高校選手権出場。2年次にはインターハイ出場。3年次では攻撃的なMFとしてチームの軸となりインターハイ、選手権の両大会で活躍した〔3年次のインターハイでは鉄壁のDF陣を擁して強豪帝京高校を下しベスト4進出。冬の選手権では優勝候補に挙げられたが、1回戦で帝京高校と再び対戦し0-2で敗れた。なお、帝京は今大会を制する事になるが、早稲田一男、宮内聡、金子久らを擁していた。〕。かつて御三家と言われながら、永らく低迷が続く広島高校サッカーが久しぶりに輝いた瞬間だった。現在では県工出身者の中でも知名度は低いが、当時はこの猿沢の才能が最も注目され、ルックスの良さもあり一番人気が高かった。 その後、大阪体育大学へ進学し、エースストライカーとして活躍した。また1979年には県工の同級生の沖宗敏彦、中本邦治らと共にU-20サッカー日本代表に選ばれ、日本で行われた第2回FIFAワールドユース選手権〔ディエゴ・マラドーナの活躍で知られる〕に出場した。 就職の際には大阪に在住していた事もありヤンマー(現セレッソ大阪)から熱心に勧誘を受けたが、1982年に郷里のマツダへ入社。マツダSC(現サンフレッチェ広島)に入団し、ウイングとして開幕戦からフル出場、4得点2アシストの活躍から同年には日本サッカーリーグ(JSL)新人王を獲得した。その後、攻撃的なMFとして活躍、JSL2部への降格を2度も経験、1988年にはハンス・オフト監督下で信藤克義、高橋真一郎ら地元選手やディド・ハーフナーらともに頑張り、天皇杯準優勝に貢献した。 Jリーグ創設の2年前・1990年に現役を引退。その後はマツダに勤務している。 息子は3人おり、サッカーおよびアイスホッケーの選手として活躍している。 2013年よりJリーグのマッチコミッショナーを務める。〔2013 Jリーグマッチコミッショナー決定 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「猿沢茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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