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玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚〔『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」〕で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。 == 生涯 == === 仏教への帰依 === 陳褘は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い緱氏(現在の河南省偃師市緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の4男として生まれた。母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。字は玄奘で、戒名はこれを諱とした。生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。〔前嶋信次 『玄奘三蔵 史実西遊記』 岩波新書、1952年〕 陳氏は、後漢の陳寔を祖にもつ(現在の河南省開封市)出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡の太守になっている。その後、祖父である陳康は北斉に仕え、緱氏へと移住した。 8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった。 10歳で父を亡くした陳褘は、次兄の長捷(俗名は陳素)が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。ほどなくして度僧の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿であるは、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、陳褘は度牒を得て出家した。こうして兄とともに浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。 武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄とともに長安の荘厳寺へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。かつて煬帝が洛陽に集めた名僧たちは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人たちを尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想への見識を深めた。 武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玄奘三蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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