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玄文社は、1916年(大正5年から、1925年(大正14年)まで、東京にあった出版社。 == 概要 == 東京市芝(現・東京都港区)にあった化粧品メーカー、伊東胡蝶園の二代目社長伊東栄が、結城礼一郎を主幹として創めた。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行した。 玄文社の『玄』は、伊東栄の祖、伊東玄朴の『玄』と思われる。 1923年(大正12年)の関東大震災の頃から衰えた。 社員として、岡村柿紅・鈴木泉三郎・長谷川巳之吉・仲木貞一・内山佐平・ 服部普白・堀川寛一・小林徳二郎らの名が残る。解散後、内山・小林らは、JOAKに移って番組を制作した。 新演芸誌所載の演劇合評会が、後々に伝えられる。これは、東京の各劇場を総見した後に批評した毎月の座談会で、世話人は岡村柿紅。1918年9月から1925年4月まで、62回開かれた。伊原青々園、岡鬼太郎、川尻清潭、永井荷風、小山内薫、池田大伍、岡田八千代、久保田万太郎、三宅周太郎、などがメンバーだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玄文社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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