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玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 ==経歴== 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。大河津分水や長良川の改修に関わり、土木学会会長も務めた)の下宿に入り浸り、ドイツ語の手ほどきなども受けるようになった。 1882年(明治15年)、帝国大学(現・東京大学)医学部予備門に最年少(16歳)で合格する。ここで玉井は、生来の気質か級友たちの間で存在感を増すようになり、下宿には連日人が集まるようになっていた。この頃玉井の下宿に出入りしていた人物には南方熊楠(玉井の1年後に予備門へ入学)などがいる。しかし、こうした生活によって交際費が増大する一方であった玉井は予備門の月謝を払えなくなってしまい、1年で除籍されてしまう。にもかかわらず玉井は予備門の授業に出席しつづけ、また教授もこれを黙認した。玉井のドイツ語は優秀であったし、また当時はこのようなモグリ学生の存在は珍しくなかったためである。 1884年(明治17年)、原田貞介の分家筋であり、玉井にとって4歳年下の幼なじみでもあった原田エツと結婚。 1886年(明治19年)、原田貞介が帝国大学を中退してドイツへ留学したことに刺激され、玉井もドイツへ行くことを本格的に考えるようになる。そこで留学の資金を稼ぐため、西野文太郎らと協力して、ドイツ語学習を中心とした私塾「東京速成学館」を設立する。ドイツ語熱が高かった当時の世情や、玉井のドイツ語力が高かったこともあって生徒は多く集まり、これは一定の成功を収める。しかし、この頃になると玉井は、医学の道に進むことに疑問を抱くようになり、同年11月、第一高等中学校のドイツ法律科に編入した。 1888年(明治21年)4月、予備門の教授や卒業生からの推薦により札幌農学校(現・北海道大学)にドイツ語教授として迎えられたため、東京速成学館を閉鎖し札幌へ向かう。 札幌農学校では、同僚であった新渡戸稲造や松村松年、高岡熊雄(後に北大総長)、大島金太郎(後に日本農芸化学会会長)などと親しくなったが、晴耕雨読の生活を夢見るようになったため、1891年(明治24年)3月に退職し、札幌近郊で農業を始めた。しかしこれは失敗に終わり、これを機に玉井はドイツへ渡ることを決意する。1892年(明治25年)11月17日、玉井は妻子を原田本家に預け、単身日本を発った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉井喜作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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