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玉井浅一 : ウィキペディア日本語版
玉井浅一[たまい あさいち]
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人海兵52期。最終階級は海軍大佐
== 経歴 ==
1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。
1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。1934年11月館山航空隊分隊長。1935年4月佐伯航空隊分隊長。1936年11月鹿屋航空隊飛行隊長。1937年12月少佐。1938年3月霞ヶ浦航空隊飛行隊長。1938年12月筑波航空隊飛行隊長。1939年12月百里原航空隊飛行隊長。1940年5月第14航空隊飛行隊長。1940年11月第14航空隊飛行長。
1941年9月筑波航空隊飛行長。1941年12月太平洋戦争勃発。
1942年(昭和17年)4月、第六航空隊飛行長に就任。同年11月、海軍中佐に昇進。1943年(昭和18年)9月、第二〇四海軍航空隊飛行長。
1943年10月、第二六三海軍航空隊司令に着任。1944年3月パラオ空襲を受け、部下の甲飛10期生の一人が体当たりするので爆弾を縛ってくれとごねた際に、玉井は「必ず体当たりさせるからその時まで待て」と制止した〔御田重宝『特攻』講談社19-20頁〕。
1944年(昭和19年)7月、第二〇一海軍航空隊副長。1944年10月山本栄司令の負傷に伴い、201空司令代行。
部下だった井上武によれば、玉井は温厚で大声で叱るようなこともなく、諭すような人だったという〔御田重宝『特攻』講談社16頁〕。
部隊がダバオに移動した8月ごろ、玉井は「もう体当たりの突破口しかない。貴様ら甲飛十期生がそれをやるのだ」と語った〔御田重宝『特攻』講談社19-20頁〕。

1944年10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部に、一航艦長官に内定した大西瀧治郎中将が訪れて特攻隊編成に関する会議を開き、玉井も参加した。大西は「空母を一週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した〔戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111〕。これに対して玉井は、山本司令が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は同意を得ていると伝え、同時に決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと要望し、大西はそれを許可した〔戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁〕
神風特攻隊における指揮官の選定は、「海軍兵学校出身者を指揮官に」という猪口力平一航艦首席参謀の意向を受けて、玉井は関行男大尉を提案した〔戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113〕。玉井によれば、関は「一晩考えさせてください」と即答を避けて翌朝承諾する返事をしたという〔文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁〕。
特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した〔森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁〕。玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願した立派な決意を示した顔は忘れられないと話している〔戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p112〕。志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚。」という〔森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁〕。同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という〔御田重宝『特攻』講談社15-16頁〕。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言するものもおり〔森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁〕、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた」と話している〔渡辺大助『特攻絶望の海に出撃せよ』新人物往来社36頁〕。佐伯美津男は「強制ではないと説明された。セブで100機近く零戦を失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった。」と話している〔『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋307-308頁〕。
玉井の部下だった甲飛10期生らは、神風特攻隊の創始者は大西ではなく玉井と考えている。その理由として、特攻隊の編成、人員配置、命名が19日夜半のわずかな時間で手際よく行われ、人員の組み合わせも親しいもの同士、長く同じ隊にいたものであり現場を熟知した内容だったこと〔御田重宝『特攻』講談社23頁〕、また玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早くから体当たり攻撃を提唱して甲飛10期生にもう特攻しかない、必ず機会をやると話していたことを挙げている〔森史朗『特攻とは何か』文春新書84-85頁〕。
10月20日この最初の神風特攻隊が編成され、25日最初の戦果を挙げた。以降、神風特攻隊は拡大していった。
341空の小野正夫によれば、玉井は特攻隊員に対して「お前たちだけ殺すようなことはしない。必ず俺たちも後に続くから」と語っていたという。一方で201空の笠井智一によれば、玉井は自分の部下にはそういったことは言っていないという〔生出寿『特攻長官 大西滝治郎』徳間書店92頁〕。
同盟通信報道班員小野田政によれば、21日に未帰還となった久納好孚が新聞に書かれないことがかわいそうだから書いてくれと玉井から頼まれたという。玉井は人情家で、戦果がはっきりしないからという理由で久納が報道されないこと気にしていたという〔大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年62頁〕。
1945年(昭和20年)3月、第二〇五海軍航空隊司令着任。
1945年8月、終戦。9月、ポツダム進級により海軍大佐。1946年(昭和21年)1月、予備役編入。
玉井は、ある人から戦場で殺した部下の霊を弔わなければ、あなたは一生何をしても浮かばれないと言われ、久万の山寺の小坊主から修行して、1958年(昭和33年)愛媛県松山市にある日蓮宗瑞応寺の住職(法名・日覚)となり、自らが特攻命令を下した部下の冥福を祈る日々を送った。戦後、玉井に会いに行った甲飛10期生の一人である高橋保男は「仏門に入るなんて卑怯」と批判している〔生出寿『特攻長官 大西滝治郎』徳間書店92-93頁〕。
1964年(昭和39年)12月10日、日々行なっていた水垢離の後、心臓発作を発症し死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「玉井浅一」の詳細全文を読む



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