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玉川遠州流(ぎょくせんえんしゅうりゅう)は、天皇の血筋を守護した閑院宮家と宮廷文化を支えた有栖川宮家の宮家茶道を継承し、茶道で300年以上、および煎茶道で120年以上の歴史を誇る流派である。 茶道の流派の中でも珍しく、抹茶道と煎茶道の両方が伝わる。 ==流名の由来と変遷== 初代【遠州流大森家茶道】⇒5代【玉川遠州流 たまがわ えんしゅうりゅう】⇒8代【玉川遠州流 ぎょくせん えんしゅうりゅう】 初代大森秀祐は、43歳年上の文人で、徳川家康直臣であった石川丈山に漢学を学んで、【漸斎】の号を賜る。【漸斎】は、陸羽の字(あざな)の鴻漸(こうぜん)に基づく。初代大森漸斎は、徳川家光の茶道指南役・小堀遠州(小堀政一)の門に入り、武家の茶礼を学ぶ。 遠州公の茶風を【遠州流大森家茶道】、【遠州公御流大森家茶道】として京都地方に流布する。 初代大森漸斎は、石川丈山の漢学を学びたい28歳年下の霊元上皇(第112代天皇)とのつながりから、上皇の茶匠となる。霊元上皇の命で自作の竹二重切花入を献上し、上皇から【玉川】の号を賜る。以降、江戸時代の茶書は、初代を大森玉川で記載する。 2代大森杖信によって、当流は、閑院宮家と公家の茶道として発展する。閑院宮家臣六位の倉光日向守と4代大森宗震によって、当流は、さらに有栖川宮家の茶道として発展する。 1886年(明治19年)、5代大森宗龍は、初代大森玉川(たまがわ)の号を冠した【玉川(たまがわ)遠州流】に改める。 1971年(昭和46年)、8代大森宗晋は、初代大森玉川(ぎょくせん)の号を冠した【玉川(ぎょくせん)遠州流】に改める。 改めた理由は、霊元上皇から賜った号の玉川は、歌枕(うたまくら、和歌に引証される地名のこと)の玉川(たまがわ)ではなく、中国唐時代の詩人 玉川子(ぎょくせんし)盧仝の号に基づくからである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「玉川遠州流」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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