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王ヨウ[おう よう]
王瑒(おう よう、523年 - 576年)は、南朝梁から陳にかけての政治家。字は子璵。本貫は琅邪郡臨沂県。 == 経歴 == 王沖の十二男として生まれた。梁の大同年間、秘書郎を初任とし、太子洗馬に転じた。元帝に召されて中書侍郎となり、殿省に宿直し、相府の記録をつかさどった。東宮内史となり、太子中庶子に転じた。生母が死去したため、丹陽に帰って喪に服した。554年(承聖3年)、江陵が西魏の侵攻により陥落し、蕭方智が梁王を称すると、王瑒は仁威将軍・尚書吏部郎中に任じられた。555年(承聖4年)、貞陽侯蕭淵明が帝を称し、蕭方智が太子となると、王瑒は散騎常侍の位を受け、東宮に仕えた。 556年(紹泰2年)、陳霸先が司徒となると、王瑒はその下で司徒左長史となった。557年(永定元年)、陳が建国されると、五兵尚書を代行した。559年(永定3年)、文帝が即位すると、散騎常侍の位を受け、太子庶子を兼ね、東宮に仕えた。左驍騎将軍・太子中庶子に転じた。566年(天康元年)、廃帝が即位すると、左驍騎将軍を兼ねたまま侍中となった。567年(光大元年)、父が死去したため、辞職して喪に服した。 宣帝が即位し、569年(太建元年)になると、再び侍中・左驍騎将軍となった。太建年間に度支尚書に転じ、羽林監を兼ねた。信威将軍・雲麾始興王長史となり、州府の事務を代行することとなった。赴任しないうちに、中書令に転じた。573年(太建5年)10月、吏部尚書に任じられた。574年(太建6年)12月、尚書右僕射となった。575年(太建7年)6月、尚書僕射となった。12月、尚書左僕射となった。576年(太建8年)5月、死去した。享年は54。侍中・特進・護軍将軍の位を追贈された。諡は光子といった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王ヨウ」の詳細全文を読む
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