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王世充 : ウィキペディア日本語版
王世充[おう せいじゅう]

王世充(おう せいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。
== 生涯 ==
祖先は西域出身であり、父王收のもとの姓は支であったが、母姓より王に改姓している。幼少の頃より経史や兵法を好み、開皇年間に軍功により兵部員外郎に取り立てられた。大業年間に江都宮監に任命され煬帝の信任を受け、楊玄感の反乱及び山東一帯の農民反乱を平定したことで頭角を現し、河南地方の一大勢力となった。
大業14年(618年)、煬帝が宇文化及に殺害されると元文都皇甫無逸などと共に洛陽にて越王楊侗を皇帝に擁立し、王世充は吏部尚書、鄭国公となった。実質的に秦を支配していた王世充は李密を降伏させ、また楊浩を皇帝に擁立した宇文化及の軍を破ると、元文都を殺害し朝政を専断、九錫を恭帝楊侗に迫った。
619年、ついに恭帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号をとし、元号として開明を建て、現在の河南省北部を支配した。しかしその統治は過酷なものであり、多くの民衆が逃亡し、また少なくない将軍たちも李淵に帰順した。開明2年(620年)7月、李世民が中原に向かい進軍すると、王世充は夏政権を樹立し自立していた竇建徳に救援を依頼した。しかし竇建徳が虎牢にて李世民に敗れると、王世充は唐に降伏した。接見した李淵は王世充を平民とし、一族を巴蜀(現在の四川省)に流刑にした。その移動途中の雍州の廨舍で、仇家である定州刺史独孤修徳により殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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