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王位請求者(おういせいきゅうしゃ、, , )は、王位を請求する者のこと。広義には帝位・皇位を請求する者を含める。王位僭称者(おういせんしょうしゃ)、王位覬覦者(おういきゆしゃ)〔覬覦は「(分不相応なことを)うかがい狙う」の意〕と呼ぶこともあるが、一般的にこれらの語句は、ジョシュア・ノートンに代表されるような、王家とは何の関わりもない人物が君主位を僭称している場合に使われることが多い。君主制(王朝)や王位請求者を支持する政治党派を、王党派という。 それまでの王統・皇統の断絶に際して旧王朝と血縁関係や姻戚関係にある者が君主位を請求するケース、簒奪やクーデター、宮廷革命などで廃位された君主の子孫や縁戚関係の者が君主位を請求するケース、君主位の継承権を持ちながらも順位が低い、あるいは順位を下げられたり継承権を奪われた者が君主位を請求するケース、また革命や他国の併合などで君主制(王朝)そのものが廃止された国家もしくは地域において、君主制の復活や独立などとともに自身の君主位を請求するケースなどがある。 最後のケースの場合、実際に君主制の復活を求める者に限らず、世が世なら君主の座に就くことができたであろう者について(本人が君主位を望んでいるかは別として)こう呼び、王位請求者に含める。日本を例にとるならば、現在の沖縄県に当たる旧琉球王国の王家であった尚氏の当主は、たとえ王位の復活を求めていなかったとしても、その立場上は王位請求者と見なされうる、といった具合である。 清朝最後の皇帝溥儀は、辛亥革命により君主制が廃止されたにもかかわらず、清室優待条件によっておよそ10年にわたり紫禁城で皇帝のような生活を送った。しかし溥儀は紫禁城から外に出られない生活を嫌がっていたという。そのため、これは本人は望んでいないのに王位請求者となることを強制された例といえる。 徳川将軍家やネパールのラナ宰相家のような、厳密には君主ではないものの、かつて実質的に君主として扱われていた一族の子孫も、王位請求者のように見なされることがある。ただし、そういった扱いをされるのは外国からがほとんどであり、その国内において君主位の請求者とされることは極めてまれである。 == 近年の動き == 現在、王位請求者とされる人物はそのほとんどが君主制の復活を求める活動をしておらず、一般人として人生を送っていることが多いが、中には旧王朝の当主やその一族の血を引く者が、君主制の復活を求めて亡命政府や政治団体を作って政治活動をしている者もいる。あるいは共和制国家の枠内で政治家として活動している例もある。 前者では、共産主義革命で倒れた旧ラオス王国の王族であるスリウォンサワーンとその叔父のスリャウォンサワーンの両王子を中心とする生き残った王族たちが、ラオスにおける立憲君主制の復活を求めて活動している例がある。他にもイラクで、最後の国王ファイサル2世の従兄弟であるシャリーフ・アリー・イブン・アル=フセインが、の党首として政治活動を行っている。 後者では、ブルガリア王国最後の国王であるシメオン2世が、東欧革命後に帰国したものの王位復帰を要求しない一方で、同国の首相を務めたのが好例である。その他、ハプスブルク=ロートリンゲン家の現在の家長であるカール・ハプスブルク=ロートリンゲンが、オーストリア選出の欧州議会議員として活動していた。イランにおいても、パフラヴィー朝の最後の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの長男の元皇太子がイランにおける人権問題等を批判し、イランの世俗化と民主化を主張して政治活動を行っている。 君主制への回帰が公に議論されている国もある。グルジアでは近年、グルジア正教会を中心に王制復帰運動が活発化してきており〔〕、議会の一部などで議論が行われている。バグラチオン(バグラティオニ)王家の家長もそれに極めて前向きである〔「国民が望むなら祖国に帰り国王に就任すると明言」、「朝日新聞」1992年2月22日付〕。また、アラブの春によってカダフィ政権が倒された後のリビアでは、新政体として旧王家であるサヌーシー家のもとでの立憲君主制の復活を、政府の要人たちが視野に入れて検討している〔ムハンマド・エムハンマド・アブドルアジーズ外相が、リビアを立憲君主国家とする構想を発表した〕〔debate monarchy return 〕。接触を受けた旧王家側も「リビア国民が望むなら王位に就いてもよい」との意見を表明している。なお、リビアの国旗はかつての王政時代のものに戻された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王位請求者」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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