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王家烈[おう かれつ]
王 家烈(おう かれつ)は中華民国の軍人。黔軍(貴州軍)の一派閥である桐梓派の有力指揮官。国民政府時代に貴州省を統治したが、中国共産党の長征阻止に失敗したことに端を発し、下野に追い込まれた。字は紹武。 == 事績 ==
=== 桐梓派での台頭 === 幼い頃は学問を修めたが、1914年(民国3年)より貴州新軍に加入する。後に周西成配下となり、四川省・貴州省を転戦した。1922年(民国11年)6月、中国国民党に加入し、翌1923年(民国12年)、周西成が靖黔軍を結成した頃に、王は旅長に昇格した。〔徐・周(1999)、53-54頁。〕〔徐主編(2007)、138頁。〕〔劉国銘主編(2005)、208頁。〕また、この時期には、周西成率いる桐梓派内部で「群(毛光翔)、紹(王家烈)、佩(黄道彬)、用(猶国才)」の後継序列が定まる。〔貴州軍閥史研究会ほか(1987)、204頁。〕 1926年(民国15年)3月には、王家烈は第2師師長に昇進した。しかし、王は桐梓派内でも突出した軍功を重ねて台頭したにもかかわらず、周の義弟である毛に遅れをとる後継序列となったため、このことに不満を露わにした。これが原因で、王は周により一時罷免されてしまう。〔徐・周(1999)、54頁。〕1927年(民国16年)春、王家烈は復帰し、周西成と対立するの迎撃などで軍功をあげた。1929年(民国18年)5月、周が雲南の竜雲に敗れて戦死する。序列第1位で周の義弟である毛光翔が貴州省政府主席兼国民革命軍第25軍軍長となると、王は第25軍副軍長兼貴州省政府委員になった。〔徐・周(1999)、55頁。〕〔〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王家烈」の詳細全文を読む
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