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王朝国家論 : ウィキペディア日本語版
王朝国家[おうちょうこっか]

王朝国家(おうちょうこっか)は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。
律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。
11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立や院政武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている。
王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。
== 沿革 ==

=== 王朝国家の出現 ===
8世紀初頭に確立した律令制は、個人を徴税単位とする個別人身支配(人別支配)を基本原則としており、高度に体系化された律令法典・官僚制度・地方制度や戸籍計帳などを基盤として存立していた。特に、古くからの地域における首長層を再編した郡司層の首長権への精神面での服従構造と、経営の安定性を欠く零細百姓層の経営維持を保証する公出挙は、本来古代日本とは異質な社会である唐代中国社会を成立背景とした律令制が、日本で成立する上で重要であった。しかし、早くも8世紀後期頃から百姓偽籍浮浪・逃亡が見られ始め、個別人身支配体制にほころびが生じていた。その後、8世紀後期から9世紀を通じて律令制を維持または再構築しようとする試みが繰り返されたが、大多数の貧困百姓層とごく少数の富裕百姓層(富豪層)という百姓層内の階層分離はますます加速していき、貧困層は偽籍・逃亡によって租税負担から逃れ、富豪層は墾田活動を通じて得分収取しうる田地を獲得し、逃亡したり私出挙によって負債を負わせた貧困百姓らを保護民、隷属民として囲い込んでいった。
個別人身支配の基礎となっていたのは戸籍・計帳であったが、上記の状況は、もはや戸籍・計帳による人民支配=租税収取が限界を迎えていたことを示している。また、個別人身支配を受けるべき個々の民は、かつてのように地域首長層の末裔たる郡司の首長権への精神的服従意識によって統率された存在ではなく、生産基盤となる動産を集積し、安定経営を達成した富豪層の保護、隷属関係よって統率された存在に変質を遂げていた。こうした状況を受け、政府は、従前の個別人身支配に代わって租税収取を確保するための新たな支配体制を構築するため、大きな方針転換を迫られていた。
9世紀末~10世紀初年に醍醐天皇及び藤原時平が主導した律令制復活の最後の試みである延喜の治が失敗に終わると、次代の朱雀天皇及び藤原忠平は、個別人身支配を基調とする体制から土地課税基調の体制へと大きな政策転回を行った。朱雀期以降、律令制的人別支配を前提とする班田収授が実施されていないことなどが、この政策転回の存在を示している。個人を課税対象として把握する個別人身支配において、偽籍・逃亡が頻発すると課税対象である個人を把握することはできなくなるが、土地課税原則のもとでは、田地の存在さえ把握していればそこを実質的に経営している富豪層から収取すべき租税を収取することが十分可能となる。こうした考えが、政策方針の転回の背景にあった。
土地課税を重視する考えは9世紀前期の藤原冬嗣執政期の頃から存在していたが、個別人身支配の原則を覆すまでには至っておらず、10世紀初頭の朱雀期になって初めて個別人身支配が放棄された。ここに、律令国家体制期が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。
なお土地課税基調体制への移行の時期について、宇多天皇及び菅原道真の主導による寛平の治を王朝国家体制への転換準備期とし、延喜の治を時平による王朝国家体制への移行期であるとする意見〔平田耿二,2000など〕がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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