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王朴(おう ぼく ? - 959年)は中国後周の政治家。字は文伯。東平(現山東省泰安市東平県)の人。後周の世宗・柴栄を支えた宰相。 幼い頃から用心深い性格で、学を好み作文に優れていた。後漢の乾祐年間(948年~950年)に進士に及第すると校書郎に任じられた。当時の後漢は権臣同士の争いで国内がおおいに乱れており、廷臣の多くが争乱に巻き込まれて命を失ったが、王朴は難を逃れた。 950年に郭威が後周を建国すると、節度使として澶州(現河南省濮陽市)に鎮する柴栄(後の世宗)に仕え、節度掌書記、右拾遺、推官を歴任した。954年に太祖・郭威が崩じ、世宗・柴栄が後継者として即位すると比部郎中に移った。 新たに皇帝に即位した世宗は四方を征伐して統一事業を推し進めることを悲願としていたが、群臣の多くは内政を優先すべきという意見であった。そんな中、王朴は対外積極策を支持し、天下統一のための戦略として、まず南唐、南漢、後蜀の順に南の勢力を併合し、それから北の契丹に当たるべしという「平邊策」を説いた。これを期に王朴は世宗から一目置かれるようになり、共に天下の大計を論じてみるとお互いの考えに合わないところがなかったという。以後は知開封府事、東京留守、枢密使など国家の重職を任されるようになり、世宗が外征で留守の間は王朴が庶務の一切を取り仕切った。 959年3月、司空・李穀の屋敷を訪問中に突然の発作に襲われ、一晩の後に死去。 王朴の死を知った世宗は愕然とし、棺を前にすると玉鉞を地に叩きつけて慟哭したという。侍中が追贈された。 == エピソード == *世宗は在位中に功臣閣を禁中に建て、そこに当時の大臣たちの人物画を飾って彼らを顕彰していた。960年に皇帝に即位した北宋の太祖・趙匡胤は、ある日この功臣閣の横を通り過ぎようとしたときに風によって偶然功臣閣の門が半分開き、中にある王朴の絵と向かい合ってしまったことがあった。趙匡胤は王朴の絵を見るなり、後ろに下がり姿勢を改めると、身にまとった黄袍の襟帯を整え、身を屈め腰を深く折り曲げて礼拝した。側近が「陛下は貴い天子になり、彼は前朝の臣です。礼が過ぎるのではありませんか?」と訝しがると、趙匡胤は身にまとった黄袍を指しながら「この人が生きていれば朕はこの袍を着られなかった」と語ったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王朴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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