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王濬 : ウィキペディア日本語版
王濬[おう しゅん]
王 濬(おう しゅん、拼音:Wáng Jùn、206年 - 285年)は、中国三国時代から西晋にかけての人物。西晋に仕えた。士治司隸弘農郡湖県(河南省霊宝市)の出身。妻は徐邈の娘。
==生涯==
代々2千石の家柄で、若い頃から経籍に精通し、また容姿に優れていたが、名声を求める行ないをしなかったため、郷里の有力者達から評価されなかった。後に意を改めて大志を抱き、司隸から招聘され河東従事となった。当時の司隷校尉〔「晋書」王濬伝は刺史となっている。しかし王濬は司隷の人なので、刺史というのは誤りの可能性がある〕 が徐邈であり、王濬は徐邈から娘を妻として貰い受けることを許された。
羊祜の参軍事となり、羊祜に優待された。羊祜の甥の羊暨が王濬のことを「志は大きいが奢侈で節義が無いので、専任すべきではありません」と進言したが、羊祜は王濬の才腕が必要だと考えたため取り合わなかった。
益州の巴郡太守広漢太守に昇進し、当地の兵役を緩め恵みをもたらしたため、郡民に喜ばれた。刺史の皇甫晏が張弘の乱によって殺害されると、代わって刺史となり張弘を誅殺し、その後も蛮夷を懐柔して多数を帰属させた。この功績で宮廷に入り、右衛将軍、さらに大司農となった。しかし、王濬を奇略の持ち主と知る羊祜は、密かに上表して再び彼を益州刺史とさせた。王濬は蜀の旧臣である何攀を重用し、羊祜とも連絡を取り合い討伐の協議を進めた。詔勅が下ると、呉を討伐するための大船団の建造を開始した(『華陽国志』によると、咸寧2年(276年)10月)。咸寧3年(277年)には、領内で五斗米道の一派を率いる陳瑞を「不孝」であるとして誅殺し、巴郡太守・唐定はじめ、配下で入信した者を免官にした。また領内で山川を祀った祠には松柏が植えられていたが、王濬はこれを「非礼」であるとして破壊・焼却し、松柏は船建造の材料として押収した。それでも資材が足りず、何攀の進言で墳墓に植えられた松柏を市場で買い取った。また、詔勅により屯田兵600人を建造に動員したが、やはり何攀の進言で休養中の兵士1万人も勝手に動員し、工事を急がせた。これは正規の許可申請を出しても、呉討伐慎重派によって却下されるリスクを恐れたためである。

こうした突貫工事の結果、長江上流では、建造の過程で発生した無数の木屑によって、川幅何キロもある長江の河の色が変わるほどであったという。
咸寧5年(279年)、龍驤将軍・監益諸軍事として、長江を下り呉に侵攻した。王濬は各地で呉軍を破り、西陵武昌を瞬く間に攻略した。王濬の旗船である大型の楼船を見た者は、「全長が120歩あり、二千人以上が乗船し、まさに木で造られた城のようである。櫓が立ち、四つの城門がついており、甲板では馬を走らせることができる。さらに船首には鳥の頭や怪獣の絵を描き、川の神への魔よけとしている。これほどの船は、過去に見たこととがない」と言い、その壮大さに驚愕したという。
呉軍は王濬の船の進攻を阻むため、長江沿いの要害を選んで大きな鎖を渡した。さらに先の尖った鉄製の大きな障害物を造り、川の浅瀬に沈めることで、船がぶつかって壊れるよう仕組んだ。王濬はこれに対し、配下に命じて全体が100歩余りの大きな筏を作らせ、泳ぎの達者な者をそれに乗せて先行させ、大きな鉄製の障害物を引き摺って退けさせた。さらに巨大な松明を作ってそれに油を注ぎ、炎で鉄の鎖を溶かせ断ち切らせた。これにより軍船が進めるようになった。
太康元年(280年)2月、戦地で平東将軍・仮節都督益梁諸軍事に昇進して、建業へ迫った。
この時、先んじて建業近郊に到着して呉の中軍〔京師(首都)防衛の中央軍〕を破り、張悌を斬るという活躍をしていた王渾は、王濬に対してしばらく前進を待つように軍令を出した。しかし、王濬は船の帆を指して「風向きに利がある。泊まることは得策でない」と勝手に前進し、孫晧を降伏させた。王濬に続き建業に入ることになった王渾は、これを甚だ遺恨に思い、司馬炎(武帝)に対し王濬を弾劾上表した。王渾がさらに王濬を攻撃しようとしたので、王濬は何攀の進言で孫晧の身柄を王渾に引き渡し、その場を収めた。王濬は征伐の大功によって罪は免れたが、このために王渾との不和が以後長期に亘り続くことになった。しかし王濬は蜀漢を滅ぼした鄧艾の二の舞になることを恐れて、自分から不満をいうことはなかった。
呉を滅ぼした功績により、輔国大将軍・領歩兵校尉となったが、秦秀秦朗の子)らは王濬の功績に対し、かえって降格人事を行なったのではと批判した。最終的には、撫軍大将軍・開府儀同三司・特進・散騎常侍にまで昇り、襄陽侯に封じられた。太康6年(285年)死去した。享年80。は武侯とされ、柏谷山に葬られた。その垣根は周囲45里で四面に門を備え、松柏が生い茂ったといわれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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