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王直[おうとう] 王直または汪直〔母方の姓は汪氏で、そのために汪氏も名乗ったのではないかという説がある。〕(おうちょく、生年不詳 - 嘉靖38年(1559年)12月25日)は、中国の明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。王直はあだ名で、本名は王(おうとう)〔同時代に倭寇を調査した鄭舜功の『日本一鑑』の記述による。〕と言い、五峯(五峰)と号し、徽王や老船主とも称した。 == 生涯 == 徽州歙県(きしゅう きゅうけん、現在の安徽省黄山市)に生まれる。任侠の徒であったと言われ、青年の時に塩商を手がけるが失敗。明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任を得る。1548年、密貿易を取り締まった朱紈らが双嶼を攻撃すると逃れて海賊集団を組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となった。 1540年には日本の五島に来住し、1542年に松浦隆信に招かれて平戸に移った。そして1553年に烈港が再び明軍によって攻撃されると王直は活動拠点を五島や平戸に移したとされている。地方官憲や郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大。1543年(日本暦天文12)ともされる日本への鉄砲伝来にも「五峯」が関わっていたとも言われ、王直の乗るジャンク船が種子島へ漂着、同乗していたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとされる。このジャンク船はアユタヤを出航し、双嶼に向かっていた。また、豊後国の戦国大名である大友宗麟とも接触をもったと考えられている。 朱紈の死後に倭寇の取締りは一時的に弱まるが、兪大猷らが新たに赴任し、1556年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。胡宗憲が総督に就任すると、王直は上疏(じょうそ)して自らはもはや倭寇ではないので恩赦を得たいと訴え、海禁解除を主張し、自らの管理下での貿易を願い出た。しかし明朝の倭寇の鎮圧は本格的に開始され、1557年、王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港した。明朝では王直の処遇について意見が対立していたが、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王直」の詳細全文を読む
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