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王長述[おうちょうじゅつ] 王長述(おうちょうじゅつ、生没年不詳)は、中国の西魏から隋にかけての政治家・軍人。名は述。長述とは字であり、字をもって通称される。本貫は京兆郡霸城県。 ==経歴== 王慶遠の子として生まれた。8歳のときに宇文泰に見出され、員外散騎侍郎に任ぜられ、長安県伯に封ぜられた。撫軍将軍・銀青光禄大夫・太子舎人に累進した。祖父の王羆が死去すると、長述は扶風郡公の爵位を嗣いだ。中書舎人に任ぜられ、起居注を修撰し、龍門郡公に改封された。于謹の下で江陵の平定に功績を挙げた。北周が建国されると、長述は賓部大夫となり、晋州刺史として出向し、玉壁総管長史に転じた。まもなく司憲大夫の位を受け、広州刺史に任ぜられて、善政で知られた。大将軍の位に上った。後に襄州総管・仁州総管を歴任した。 楊堅が北周の丞相となると、長述は信州総管に任ぜられ、管内の少数民族を征討して、位は上大将軍に進んだ。王謙が益州で乱を起こすと、使者に手紙を持たせて長述のもとに派遣した。長述は王謙の使者を捕らえて、楊堅に王謙の手紙を提出し、王謙の策を上申した。楊堅は喜んで、長述を行軍総管に任じ、兵を率いて王謙を討たせた。功績により位は柱国に進んだ。隋が建国されると、長述は南朝陳を平定する計略を上申し、戦艦を修繕して、長江の上流の軍隊を整備した。文帝(楊堅)は長述の労をねぎらって、陳に対する征討軍を起こす日には、長述を元帥とすることを約束した。数年後、長述は行軍総管として南寧を攻撃しようとして、道中で病没した。上柱国・冀州刺史の位を追贈された。諡を荘といった。
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