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王電 : ウィキペディア日本語版
王子電気軌道[おうじでんききどう]

王子電気軌道(おうじでんききどう)は、電気事業(電灯電力事業)、軌道事業(路面電車)、路線バス事業の3つの事業を経営していた会社である。王子電車王電とも呼ばれ、往時を知る年配者などから後身である現在の都電荒川線がそのように呼ばれることもある。
== 歴史 ==

王子電気軌道は1906年(明治39年)5月に発起人松本錬蔵他29名が東京府北豊島郡王子町(現在の東京都北区王子)のを中心とする電気軌道の敷設及び営業を関係当局に出願した。1907年(明治40年)5月にはその許可を得ていたが出願から設立までかなりの年数が要したため資金難に陥った。紆余屈折を経て渋沢栄一、才賀電機商会の才賀藤吉の資金援助を受けて株式の払込が完了した。このため設立時の経営陣には発起人からの就任した者は少なく初代社長には才賀藤吉が就任した。1907年(明治40年)11月に申請された電気供給事業は設立後の1910年(明治43年)10月に認可がおりた。
1910年(明治43年) 4月に資本金100万円(25万円払込)で設立され、1911年(明治44年)8月には大塚から飛鳥山間の軌道を開通させて営業を始めると共に11月には電気供給事業を開始した。王子電気軌道は発電所、変電施設の建設などの工事を進め、電気軌道に遅れること3か月で北豊島郡王子、巣鴨、板橋、岩淵、滝野川、尾久、三河島の各町村と埼玉県北足立郡川口町での電灯供給を開始した。これらの地域における電灯需要は旺盛で開業直後7,136灯の申し込みだったが2,134灯が設置し供給開始から1年後、1912年(明治45/大正元年)上期16,964灯に1913年(大正2年)下期には24,585灯に達していた。電力需要は1913年(大正2年)下期は448kWの供給となっていたが王子電気軌道の営業区域内は工場の立地が進み、供給は巣鴨村で火力発電所(出力750kW)を建設して電気軌道・電気供給事業用に当てていたが電灯・電力需要の好調を受け1912年(明治45/大正元年)7月に300kW増強した。
1913年(大正2年)4月に飛鳥山から三ノ輪間が開通し電気軌道の営業距離が7.3kmとなるが開業当初は2.3kmの路線しかなかったため営業収入は電灯・電力収入のほうが遥かに多かったようである。こう時代が流れるなか、電灯電力事業は急速な成長にもかかわらず電気軌道の旅客営業成績が不振で1912年(明治45/大正元年)下期と1913年(大正2年)上期に4%配当を行ったものの1915年(大正4年)以降下期までは無配に転じ資金調達にもかなり苦しんでいたといわれ、借入金が年々雪だるま式に増え1913年(大正2年)下期には負債が60万円に超えていた。1913年(大正2年)4月株主総会にて才賀社長はじめ5人の取締役と2名の監査役が辞任した。代わって安田系の資本を代表して長松篤棐が社長に就任し10月には辞任した。
王子電気軌道の経営が苦境から脱するのは1914年(大正3年)末に自社発電から猪苗代水力電気の受電にできるようになってからである。1914年(大正3年)以降社員の整理や経費の節減などを進めて立て直しを図ったが取締役や株主がめまぐるしく変わり不透明さが解消されなかった。1913年(大正2年)4月には社内対立をもとに才賀藤吉が社長辞し安田系の長松社長も半年で社長を辞し常務の広橋嘉七郎が事実上社長を執り行っていたようで1916年(大正5年)4月まで社長が空席となっていたようである。大正後期から昭和初期かけて王子電気軌道の大株主がまたもめまぐるしく変わり東京市関東配電に引き継がれるまでは会社が不安定な状態が続いた。原因は軌道事業で会社の営業収益の足かせとなっていた。電灯事業は1914年(大正3年)から年2倍ずつ電力使用量が増えていった。
1942年(昭和17年) 王子電気軌道は電灯事業が電力統制により関東配電に合併され、軌道事業は東京市電気局に引き継がれ、会社が消滅した。王子電気軌道の所有だった王電ビルヂングは2006年(平成18年)現在三ノ輪橋に残っており、今でも三ノ輪橋の近辺住民には「王電ビル」と呼ばれ親しまれている。
2006年(平成18年)現在も存続している会社でかつて電気事業と鉄道事業を兼業していた会社に京成電気軌道(現・京成電鉄)があり、そして東急電鉄も目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄と名乗っていた時期に兼業していた。ほとんどの鉄道事業者は当時鉄道事業と並行して経営をしていた。東急に合併された会社では、旧京王電気軌道(現在の京王電鉄京王線の母体)、旧京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄の母体)があるほか、鬼怒川水力電気によって創立された旧小田急電鉄(現在の小田急電鉄京王井の頭線の母体)は電灯事業だけではなく電力事業(発電事業)も行い、副業として鉄道事業を経営していた。京王電気軌道のように電燈事業の収益が鉄道事業のそれを大幅に上回るものもあり、電灯・電力事業は当時の資本家には鉄道業より利潤が利潤を生む事業構造だった。
王子電気軌道は電灯電力事業が主力で鉄道(軌道)事業は副業だった。電灯電力で余剰となった電力を鉄道(軌道)事業に使っていた。王子電気軌道は東京市内城北地区板橋区練馬区も含む)、滝野川区王子区北区)、荒川区豊島区。埼玉県下は北足立郡川口町(川口市)、北足立郡草加町(草加市)、南埼玉郡八幡村(八潮市の一部)に電気を供給していた。経営収益のセグメントは、電灯電力事業が当時の東京市の電灯電力会社の営業収支トップ3に入っていた。1位が東京電燈東京電力の前身の一つ)、2位が東京市電気局(東京都交通局の前身)、そして3位が王子電気軌道だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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