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村田珠光[むらた じゅこう]
村田 珠光(むらた じゅこう、応永29年(1422年)または30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日)または7月18日(8月20日))は、室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者と目されている人物。なお僧であったため、本来ならば苗字は記されないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている〔1468年に還俗してから村田珠光と名乗り始めたとの伝承あり〕。 近年では「しゅこう」と濁らせないとする説もある。 == 生涯 == 父は検校の村田杢市。幼名・茂吉、木一子。奈良の浄土宗寺院称名寺に入れられたが出家を嫌って上京し、京都三条に住み茶の湯を学ぶ。30歳の頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅。印可の証として一休から圜悟克勤の墨蹟を授けられる。茶禅一味を体得し、内実化に邁進する。能阿弥との関係も深く、花の弟子となり茶・目利きを学ぶ。その後、能阿弥の引き立てにより足利義政の知遇を得る。還俗し、六条堀川醒ヶ井通西に茶帝を構える。了海上人遷化ののち奈良へ帰る。京都にて死亡。 しかし珠光に関する資料は少なく、以上の内容は伝承の粋を超えない。 一休開基の真珠庵の過去帳の文亀2年5月15日(1502年6月19日)条に「珠光庵主」の名が見え、一休13回忌に一貫文を出しているから(熊倉功夫「茶の湯の歴史」朝日選書)大徳寺に深い関わりを持っていたことは確かである。なお一休に参禅していたとしてもこれは諸宗兼学の修行であって、珠光が臨済宗へと宗派を変えたとは言い切れない(但し、確かに養子の宗珠は臨済宗の僧侶となっている)。戦後の研究では還俗して商人になったとされてきたが、珠光64歳の時期に当たる『山科家礼記』に「珠光坊」という記述が発見されたことから現在では一生僧侶であったと改められている。さらに『山上宗二記』(二月本)中の「珠光一紙目録」により室町幕府8代将軍・足利義政に茶道指南として仕えたともされたが、これは同書中の能阿弥に関する記述がその生没年と合わないことから現在の茶道史研究では基本的に否定されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村田珠光」の詳細全文を読む
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