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琉王 優貴(りゅうおう ゆうき、1945年2月25日 - 2015年6月28日)は、沖縄県那覇市出身(出生地は大分県中津市)で、朝日山部屋に所属した元大相撲力士。 本名は島 武光(しま たけみつ)→神田 武光(かんだ - )。現役時代の体格は177cm、130kg。得意手は突き、押し。最高位は西前頭筆頭(1973年9月場所)。沖縄県出身者初の関取として記録に残っている。 == 来歴 == 疎開先の大分県中津市で生まれ、アメリカ占領下の那覇市で少年時代を過ごした。中学卒業後に奄美群島奄美大島に渡り、奄美高校では柔道部で活躍する。高校2年の夏休みに上京した時、同じ奄美群島徳之島出身の横綱・朝潮のいる高砂部屋に出かけたが、巡業中で誰もおらず失望して帰る途中で道に迷ったところを朝日山親方(元関脇・高津山)夫人に声を掛けられた。奄美大島に帰った後に朝日山部屋から勧誘の手紙が来たのを機に、「柔道じゃ金にならないが、相撲なら金になるだろう」と考えて入門を決意し、1962年(昭和37年)11月場所で初土俵を踏んだ。 一時は幕下で伸び悩み、廃業して自衛隊に入隊しようかとも考えたが、日本国籍が条件だと書かれていたので諦めた〔後に自衛隊幹部と同席した時この話を打ち明けたが、そんなことはないと笑って否定された。これは当時の沖縄県本籍者も、戦時中から引き続き日本国民とされていたためであり、実際に当時の自衛隊の中にも沖縄県出身者は存在した。(琉球住民、第1混成団を参照のこと)〕。しばらく続けた後にまた廃業を考え、「どうせやめるなら、でかい四股名にしてやろう」と考えて「琉王(“琉球の王”という意味)」と改名。その後、稽古をしないでちゃんこを腹いっぱい食べたら体重が増し、押しに威力が出て強みを増した。そこで稽古にも励みが出て、1970年(昭和45年)11月場所で新入幕を果たし、大相撲史上初の沖縄県出身の幕内力士となった。 新入幕の場所でハワイ出身の高見山を破った一番は、外国出身同士の取組(当時の沖縄県は外国扱いだった)として注目を集めた。これは本人も廃業時に、思い出に残る取組として挙げた一番だった。1972年(昭和47年)5月15日、沖縄返還の当日には隣県・鹿児島県出身の錦洋を破って大歓声と拍手を浴びた。幕内では9勝以上の大勝ちが一度も無かったため、三賞とは無縁のままであった。 1975年(昭和50年)10月、師匠の朝日山親方(元前頭2・二瀬山)が急死すると朝日山部屋の後継者と決まったが、暫定的に部屋を継承した元小結・若二瀬(前・北陣親方)と対立。そのため年寄名跡を得て引退することもままならず、幕下48枚目に在位した1976年(昭和51年)11月場所限り、31歳で廃業した。同時に先代の勧誘で朝日山部屋に入門し、琉王を慕っていたトンガ出身力士6名〔琉王が先代未亡人に後継指名された理由として、トンガ人力士6人を本気で関取として育てるためにも同じ外国人出身者として彼らの苦労が理解できる琉王が必要だと判断され、後援会もそれに付き従った。しかし当時既に朝日山から独立していた身であった大鳴戸(元関脇・高鐵山)が、「そんなのよりもっと良いのがいる。板井圭介君を知っているか?」と当時実業団の英才であった板井の勧誘を仄めかすと、板井の実力と才能を評価する後援会の一同は一気に若二瀬側にすり寄り、先代未亡人側は後継者争いに敗北した。その後、協会幹部が実業団相撲に低評価を下したことが朝日山部屋関係者の耳に入ったことで朝日山部屋の板井獲得は立ち消えとなり、結局板井は大鳴戸部屋へ入門した。〕も廃業・帰国する、いわゆる「トンガ騒動」が起きた〔そもそも「トンガ騒動」を決定づけた大鳴戸は自身の暴露本で「朝日山部屋の後援者がトンガの油田採掘の利権を狙っていてその為に駆り出されたに過ぎない」とトンガ人力士評価するしない以前に勧誘の経緯を批判している。また、トンガ人力士達は日本語が通じず寒さに弱くちゃんこにもなじめない上に日曜日は安息日(トンガ人はキリスト教徒)を要するなど特別待遇をせざるを得なかった点で力士としも不適格だったと切り捨てた評価をしており、板井の勧誘を仄めかすと一気に若二瀬側の方へ後援会がすり寄ったのはそれだけ板井が有望であり、油田利権を含めてもトンガ人たちが期待薄だったという論拠になり得る。〕。 以後は東京都台東区上野で相撲料理店を経営していたが、2004年に脳梗塞で体調を崩し、沖縄県豊見城市の施設で療養していた。 2015年6月28日、脳梗塞のため死去〔琉王さん死去 県出身初の幕内力士、70歳 琉球新報 2015年7月1日閲覧〕。70歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琉王優貴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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