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琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)とは、琉球、特に現在の沖縄県内で継承されている踊りの総称。琉舞(りゅうぶ)と通称される。通常は琉球古典音楽の複数曲を組み合わせた楽曲に乗せて踊られ、地謡(地方:じかた、演奏する楽師のこと。ウチナーグチでは「じーうてー」と呼ぶ)は三線(さんしん)、箏(こと)、笛、太鼓、胡弓(こきゅう)で構成される。 本来は男性のみによって踊られたが、明治以降、特に戦後は多くの女流舞踊家が誕生した。近年では沖縄県立芸術大学や国立劇場おきなわの若手実演家育成により多数の男性舞踊家が誕生している。種類としては古典舞踊、雑踊り(ぞうおどり)、創作舞踊に大別される。 == 概要・歴史 == 古来、琉球舞踊は琉球弧の地域の祭祀にみられる舞いや、琉球最古の古謡集おもろさうしの中に舞いの所作を示すコネリ(手をこねる)やナヨリ(体のなよやかな動き)等の言葉があり、神女らが古俗の神事・祭事の中でオモロ(古謡)を歌いながら舞われる祭祀舞踊であったとみられる。 それらの祭祀舞踊が能楽や中華、東南アジアなど周辺地域の舞踊の影響をうけつつ発展し、首里城や識名園、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能となった。1404年に琉球王国と中国(当時の明)が朝貢関係を結んだことにより、琉球の国王の代替わりには、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が派遣されるようになり、その歓待の宴が催されるようになった。琉球王府は、躍奉行(おどりぶぎょう)と呼ばれる奉行を設け、躍奉行が踊り手、演奏者などを任命した。その際の踊り手、演奏者は全て首里士族の子弟を中心に任命された。その際、踊られていたのが、中国からの冊封使をもてなすための芸能、御冠船踊り、今日で言う「古典舞踊」である。 薩摩の琉球侵攻(1609)後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた江戸上りの使節には、琉球舞踊を踊るための踊童子が含まれており徳川将軍の御前や薩摩江戸藩邸などでも披露された。2011年2月、日本橋三越劇場にて160年ぶりに「よみがえる琉球芸能 江戸上り」が催され大盛況となった 1879年、いわゆる琉球処分によって沖縄県が設置されると、それまで士族だった舞踊家たちは禄を失い、那覇の街に芝居小屋を建てて、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。その中で、庶民の民謡や生活などを題材にした踊りが作られるようになり、人気を博して多くの名作が生まれた。これが「雑踊り」である。 戦後の混乱期は、アメリカ統治下の中で、郷土芸能が民衆の心の支えとなって注目されるようになった。特に、沖縄タイムス社主催の芸能選賞伝統芸能部門や、琉球新報社主催の琉球古典芸能コンクール、地元新聞社主催のコンクールが開催されるようになってからは、両コンクールを通して、多くの者が琉球古典芸能(琉舞と古典音楽を合わせた呼称)を志すようになった。こうした戦後の琉舞界で生まれた新しい踊りが、「創作舞踊」と呼ばれる。創作舞踊は、各流派がそれぞれの創作活動の中で生み出したものであり、時期が新しいということを除けば、古典舞踊調であったり、雑踊り調であったり、その構成は様々である。 近年は、国立劇場おきなわの設立によって、多くの流派が独自の公演を開催するようになり、その活動は今も広がりつつある。2009年9月には、伝統芸能としての「琉球舞踊」が国の重要無形文化財に指定され、保持者として計39人(舞踊家14人、三線13人、箏7人、笛2人、太鼓2人、胡弓1人)が総合認定された。 2013年3月、国立劇場、国立劇場おきなわにおいて歌舞伎女形の人間国宝・坂東玉三郎が新作組踊「聞得大君誕生(ちふぃじんたんじょう)」(大城立裕作)の一部で古典女踊り四つ竹を舞った。2014年には、国立劇場おきなわ、京都四條南座においての「板東玉三郎特別舞踊公演」でニライカナイ伝説を基にした、板東玉三郎構成・演出による創作舞踊を披露した。 2014年11月1日に行われた、横浜能楽堂の主催公演「琉球舞踊 古典女七踊」が2014年度(第69回)文化庁芸術祭の舞踊部門・関東参加公演の部で大賞を受賞した。琉球芸能の大賞受賞は初めてであり、戦後の琉舞を牽引してきた国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者7人が琉舞の中でも特に重視される七つの古典女踊を踊った 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琉球舞踊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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