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琳聖太子[りんしょうたいし] 琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされる。義照。15世紀後半の文献からしか名が見えないため、架空の人物である可能性が高い。 == 実像 == 15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献に見ることはできない。 この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。義弘は朝鮮半島との貿易を重視した。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したと思われる。 大内氏は、『李朝実録』によれば、応永6年(1399年)には朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述が見える。 墓所は存在しないが、琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀の乗福寺に残っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琳聖太子」の詳細全文を読む
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