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甘露寺忠長 : ウィキペディア日本語版
甘露寺忠長[かんろじ ただなが]

甘露寺 忠長(かんろじ ただなが)は室町時代前期の公家。甘露寺清長の子。正四位下蔵人頭右大弁

== 経歴 ==
甘露寺家の嫡流に生まれたが、父の清長が応永21年(1414年)に34歳の若さで没したため、家督は叔父にあたる房長(清長の弟)に継承された。以後、房長と激しい昇進争いを繰り広げた。応永32年(1425年)に房長が勅勘を受けた事で蔵人を解任されて後任に任ぜられ、同年権右中弁となる。
正長元年(1428年)11月3日に蔵人頭に任じられ、同時に右中弁から右大弁を兼務する。ところが、同じ日に房長も蔵人頭に任じられて、同時に左中弁から左大弁を兼務し更に参議を兼ねるという異例の頭弁2人となった。ところが、永享2年(1430年2月になって房長が将軍足利義教の不興を買って官職を奪われただけでなく、甘露寺家の家督も没収されて忠長に与えられた。程なく、房長の復職が認められたが、家督は忠長の元に留まった。その後、永享4年(1432年4月に忠長は足利義教の大臣就任に伴って室町殿家司に任じられる一方、6月には房長が没した。
ところが、永享6年(1434年)に義教の側室・日野重子が義教の嫡男(後の足利義勝)を出産した際に大勢の人々が祝いに駆け付けた事を知った義教はその人々の真意を疑ってその人々をことごとく処罰したが、忠長もその1人で、頭弁を解任された上に、家督・所領・邸宅を全て没収され、房長の遺児である親長に譲るように命じられた(『看聞日記』永享6年2月16日条)。忠長とその母親は文書と所領の一部を親長に渡したものの、大部分を自己の元に留めた。その2年後、忠長は復帰を許される事なく没し、彼の死を知った貞成親王はその才能を評価してその早すぎる死を惜しむ記述を『看聞日記』に遺している。だが、忠長の子供達は連座して出家させられたらしく、家督を継げなかったために、例の忠長の母は親長が甘露寺家の家督を継げないようにするために家伝の文書を全て売り飛ばした(『建内記』永享11年6月9日条)。その後、忠長の子である郷長が復帰して家督を取り戻そうとして親長に対して訴訟を起こしたものの、失敗に終わり、清長 - 忠長の系統は断絶することになった。
== 参考文献 ==
* 市古貞次 他編『国書人名辞典 1』(岩波書店、1993年(平成5年)) ISBN 978-4-000-80081-5 P567
* 井原今朝男『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-8273-1266-9 P292-294



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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