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甘露寺 親長(かんろじ ちかなが)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公家である。実務家公卿を輩出した藤原北家勧修寺流甘露寺家の当主。出家後は蓮空。一字名は鬼。官位は正二位・権大納言。 == 経歴 == 応永31年(1425年)頭弁(蔵人頭左大弁)甘露寺房長の子として生まれる(応永30年・同32年説もあり)。8歳の時に父を失った上、以前に父が将軍足利義教の怒りを買った際に勧修寺家の当主の座を甥の忠長に譲らされたため(『建内記』永享11年6月9日条)、親長は冷遇された。ところが、その2年後に今度は忠長が義教の怒りを買って家督と所領を奪われた上、忠長の子供達も出家させられたために親長が甘露寺家を継ぐことになった。ところが、忠長の母がこれに激怒して家伝の文書を全て売却して親長の家督継承を妨害しようとしたという(『建内記』上記条)〔井原、2014年、P292-295〕。 嘉吉元年(1441年)昇殿、従五位下に叙される。嘉吉3年(1443年)、南朝の遺臣が内裏の中に侵入し、三種の神器を奪おうとした事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。また、同年、忠長の子・郷長が家督を取り戻そうとして訴訟を起こしたものの失敗に終わっている。 文安元年(1444年)右少弁、同3年(1446年)蔵人・権右中弁となり正五位上。その後も累進し従三位・権中納言となる。康正2年(1456年)正三位に進み、陸奥出羽按察使に任ぜられ、以後明応2年(1493年)まで同職にとどまったため按察使中納言の名で呼ばれた。また長年賀茂伝奏も務める。 応仁の乱による戦火で自邸が焼失したため、文明2年(1470年)に勧修寺・鞍馬寺等へ避難するが、それらも焼け出され、家蔵の文書・日記類も焼失した(甘露寺家を嫡流とする勧修寺流は実務の家柄であり、必要上から記録を克明につけており「日記の家」とも称された)。同年9月には帰京し、再出仕。すでに前年には官位は正二位に昇っていたが、官職は寛正6年(1465年)に権中納言を辞して以来、就任を固辞している。有職故実に通じていたことから、多くの公卿から指導を依頼され、たびたび官に推挙されたが、「高官無益なり」とかたくなに断ったという〔『親長卿記』文明3年4月26日条。親長によれば、(応仁の乱最中で)洛中の治安悪化と政治情勢の混乱で拝賀も朝儀自体も行えないこと、そして洛中を歩行して通行する(牛車で参内できない)のは見苦しいことを挙げている(桃崎有一郎『中世京都の空間構造と礼節体系』思文閣出版、2010年、P284)。〕。文明9年(1477年)には後土御門天皇の命によって洞院公賢の年代記『皇代暦』を増補して天皇に献上している。また、故実に深い知識を有した一方で、文明15年(1483年)に派遣された遣明船に自ら投資して勘合貿易の利益を得る一方で、朝廷にも投資をさせて財政難を補う一助としたり、文明18年(1486年)には『源氏物語』の一筆書写を終えた記念に、『源氏物語』の巻名を歌題とする大規模な供養歌会を開いて公家社会の注目を集める〔『親長卿記』文明18年2月13日条・『実隆公記』及び『十輪院内府記』同年2月19日条〕など、当時の公家には珍しく大胆な行動力を有していた〔今泉淑夫は文明18年2月19日の供養歌会が、先の文明15年の遣明船で渡航した息子・江南院龍霄が帰国した直後に行われていることに注目し、『源氏物語』の書写が異国に旅立った息子の無事を祈ったもので、歌会はその満願成就を祝ったものであったと推測している。〕。 明応元年(1492年)嫡子元長ら周囲の強い薦めにより権大納言への就任を受けたが、翌年に明応の政変の憤慨した後土御門天皇が退位を決意するとこれを諌め、その直後にすべての官を辞して出家。法名・蓮空を名乗る。明応9年(1500年)、美濃で薨去。享年77。 日記として『親長卿記』があり、同時代の貴重な史料となっている。またそれまでの諸記録の写本も多く残し、特に吉田経房の日記『吉記』や洞院公賢の日記『園太暦』の現存する写本の大部分は、親長の手によるものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甘露寺親長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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