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生原昭宏[いくはら あきひろ] 生原 昭宏(いくはら あきひろ、通称・アイク生原、1937年1月20日 - 1992年10月26日)は、日本の野球関係者。日米間の野球交流発展に尽力した。 == 来歴・人物 == 福岡県香春町出身。田川高校から早稲田大学へ進学、野球部選手として活躍。卒業後は指導者の道を歩み亜大野球部監督に25歳で就任している。その後1965年、ロサンゼルス・ドジャースのウォルター・オマリーオーナーと親交のあった鈴木惣太郎の紹介により渡米。ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からたたき上げでドジャースの職員となり、いつしか苗字か名前か不明であるがアイク(IKE)の愛称で呼ばれるようになる。 その後ウォルターの息子であるピーター・オマリーがオーナーに就任すると、生原は1982年からドジャース球団のオーナー補佐兼国際担当として、巨人や中日のベロビーチキャンプ実現の便宜を図ったり、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒を見るなど、アメリカにおける日本人選手の父親的存在として知られていた。1992年10月26日死去。享年55。 1992年に生原が亡くなった際に日本で行われた葬儀に参列した山本昌(中日)は棺の前で泣き崩れ、同じく野球留学で生原の世話になった長嶋一茂(ヤクルト、巨人)らに脇を抱えられなければ立ち上がれないほどだったという。山本は当時生原から「ストライクを投げろ」「低めに投げろ」「ボールは前でリリースしろ」「缶ビールは2本まで」と言われ、これを金言に32年間の現役生活を全うしている。 現在ドジャースはオマリー家の家族経営から離れてしまったが、生原はロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓の隣にある墓で眠っている。日米の野球交流に多大な貢献をした功績が認められ、2002年、特別表彰にて野球殿堂入りした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生原昭宏」の詳細全文を読む
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