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生島 治郎(いくしま じろう、1933年1月25日 - 2003年3月2日)は、日本の小説家。本名、小泉 太郎(こいずみ たろう)。筆名は結城昌治が考えた。 == 経歴・人物 == 上海生まれ。敗戦後、1945年に長崎に引き揚げ、母の郷里金沢に移る〔『私の父、私の母』中央公論社、1994年、26-31頁〕。その後、父が横浜で職を持ったため横浜に転居した〔。 中学3年から神奈川県立横浜翠嵐高等学校にかけての同期に青木雨彦と宮原昭夫がいた(ただし宮原は高校在学中に胸を患って数年間休学している)。高校時代から小説を書き始め、早稲田大学第一文学部英文学科在学中は青木雨彦や高井有一や富島健夫と同じ同人誌に所属。傍ら、港湾関係のアルバイトで肉体労働を経験する。早稲田大学英文学科の同級に小林信彦がいた。1955年卒業。卒論のテーマはジョナサン・スウィフト。 空前の就職難に苦しんだが、大学の友人の紹介で美術評論家植村鷹千代の主宰するデザイン事務所に就職。ここで知り合った画家勝呂忠の紹介により、約1年後に早川書房入社。当時の上司(編集部長)に田村隆一がいた。早川書房時代については『浪漫疾風録』に詳しい。 初代編集長田中潤司のもとで、江戸川乱歩監修による日本語版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集に従事。のち、田中の辞職に伴って新編集長都筑道夫を迎えた。 田村の下訳でロアルド・ダールの本邦初訳(『あなたに似た人』)を手がけた後、常盤新平とともに、開高健訳『キス・キス』の下訳を行う。早川書房の俸給の安さに苦しみ、密かに内職として社外の原稿を執筆しなければならなかったことから文筆家の道に入った。 26歳のとき、都筑の退社に伴って『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長に就任。約7年間の在社を経て、1963年、小説執筆を目的に早川書房を退社し、半年を費やして『傷痕の街』を完成。この作品が1964年3月、佐野洋の口利きにより講談社から刊行され、作家としてデビューした。1967年、『追いつめる』で第57回直木賞。 最初の妻小泉喜美子(旧姓杉山)とは26歳の時に結婚した。離婚後に川崎の堀之内のソープランドで知り合った韓国籍のソープ嬢と再婚し、その体験を自ら小説化(片翼シリーズ)して話題となったが、後に離婚した。 江戸川乱歩賞の選考委員を務めたときの選評には必ず「古い枠にとらわれることなく、自分が書きたいと思ったことを推理小説に仕立て上げてほしい」などと述べている。そのためか本格推理小説が応募されてくるとその作品についての評は辛くなっている。 1989 - 93年、日本推理作家協会の理事長を務めた。 2003年3月2日、肺炎のため、逝去。。葬儀委員長は作家の大沢在昌が務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生島治郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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