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生野義挙 : ウィキペディア日本語版
生野の変[いくののへん]
生野の変(いくののへん)は、幕末文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱生野義挙とも言う。
==背景==

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎松本奎堂藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組孝明天皇大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣福岡脱藩)を五条へ送った。
その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。
そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。
変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。
天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になるが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅した。
攘夷派公卿7人の一人、公卿沢宣嘉を主将とする一行は但馬に向かう途中、京・四条木屋町の具足屋大高又次郎のところで武器調達の為、京の旅籠花屋に宿泊していた。そこで、大和国から逃れてきた土佐の池内蔵太(後に海援隊士)に出会い、天誅組大和破陣の話を聞き及んだ但馬の進藤俊三郎(原六郎)らは、進藤俊三郎が京から播州へ行き、生野挙兵を目指す一行へ情報をもたらした。平野国臣北垣晋太郎らは、一旦挙兵を自重し、再度の時期到来を待つべきと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張が勝り挙兵に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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