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田中 慶秋(たなか けいしゅう、1938年3月6日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(6期)、法務大臣(第91代)、衆議院労働委員長・内閣委員長・経済産業委員長・国家基本政策委員長、民主党副代表、民社協会会長等を歴任。 政治活動では田中 けいしゅうの表記も用いており、野田第3次改造内閣にて入閣した際は『官報』には本名の「田中慶秋」及び政治活動時の名義である「田中けいしゅう」が併記された〔「人事異動」『官報』号外特29号、国立印刷局、2012年10月1日、1面。〕。 == 来歴 == 福島県双葉郡浪江町生まれ。東海大学第二工学部卒業。1961年、小糸工業に入社。労働組合活動にも参加し、ゼンキン同盟小糸工業支部委員長や書記長、横浜地区同盟副議長を務めた。 1971年、神奈川県議会議員選挙に出馬し、初当選。神奈川県議を3期12年務めた後、1983年の第37回衆議院議員総選挙に民社党公認で旧神奈川4区(定数4)から出馬し、当選。1986年の第38回衆議院議員総選挙でも再選するが、1990年の第39回衆議院議員総選挙では、リクルート事件への関与が取り沙汰され、落選。1993年の第40回衆議院議員総選挙に再起を期して出馬するが、新党ブームの煽りを受けて新党さきがけ、新生党の候補者が高い得票数で当選する一方、民社党公認の田中は非自民でありながら再び落選した。旧神奈川4区では、第39回衆議院議員総選挙以降は日本社会党が大出俊に加え、池田元久を擁立したため、民社党の田中は苦戦を強いられ、2度にわたる落選を経験した。 1994年、民社党の解党により新進党の結成に参加。1996年の第41回衆議院議員総選挙では小選挙区比例代表並立制の導入に伴い神奈川5区から出馬し、6年ぶりに返り咲きを果たした。1997年、新進党解党に伴い翌年の新党友愛結党に参加。1998年、民主党に合流する。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、自由民主党の坂井学に敗れ、比例復活もならず落選した。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川5区で坂井に比例復活すら許さぬ大差で6期目の当選を果たす。同年、衆議院内閣委員長に就任。2010年、衆議院経済産業委員長に就任。 2011年の民主党代表選挙において、田中自身は前原誠司への支持を示唆するも、田中が所属する川端グループ(民社協会)内では支持候補を一本化できなかったため、自主投票を決定した。9月、民主党副代表、衆議院国家基本政策委員長に就任。2012年10月、野田第3次改造内閣で法務大臣〔及び「北朝鮮による拉致問題の早期解決を図るため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」〔を担当する国務大臣(拉致問題担当大臣)に任命され、初入閣を果たしたが、大臣就任直後に複数の不祥事が発覚し、就任からわずか3週間で「体調不良」を理由に法務大臣・拉致問題担当大臣を辞任した〔田中法相が辞任 野田首相、臨時国会前に事実上の更迭に踏み切る 産経新聞 2012年10月23日閲覧〕。法相ポストは国家公安委員会委員長の小平忠正が臨時代理を務めた後〔野田首相、後任法相の人選急ぐ=田中氏辞任「任命責任ある」 ロイター・ジャパン 2012年10月23日閲覧〕、田中の前任者である滝実が再び起用され〔滝氏が法相に再任 失点回避狙い首相が判断 産経新聞 2012年10月24日閲覧〕、拉致問題担当大臣は内閣官房長官の藤村修が兼任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、神奈川5区で自民党元職の坂井学、みんなの党、日本維新の会の新人候補の後塵を拝する得票数4位で惨敗し、比例復活もならず落選した。 2014年4月、旭日重光章を受章。同年5月、政界を引退する意向を表明した〔田中慶秋元法相、引退へ…次期衆院選立候補せず 読売新聞 2014年5月30日閲覧〕。 2014年12月、第47回衆議院議員総選挙に長女の後藤田弥生が自身の選挙区と同じ神奈川5区から無所属で出馬したが落選した〔衆院選2014神奈川5区 読売新聞 2015年4月17日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中慶秋」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Keishu Tanaka 」があります。 スポンサード リンク
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