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田中みお(たなか みお、1968年11月27日 -)は、日本の元モデル、女優。東京都池袋出身〔週刊現代 1984年6月23日号 P52~53〕。 == 来歴・人物 == 1982年9月、通信販売のみの発売で送料込みの1万5千円の豪華写真集『ROMANCE Part2』(この写真集は他にはKUMI、SAYAKAという田中みおより幼い二人の少女も登場、ちなみに他モデルの『ROMANCE 五人の少女の前奏曲』が前作にあたる)で少女Mという特異な芸名でヌードモデルとしてデビューした。Mの意味は本人曰く、未成年のMである〔荒木経惟の熱烈 LOVE LOVE TALK(1998年、双葉社)P737〕。この時、少女Mこと田中みおは13歳であった(雑誌によっては12歳という表記もある)。モデルになったきっかけは、叔母がプロダクションをしており、事務所に遊びに行った時にたまたまいたカメラマンに誘われたからである〔アイドルが脱いだ理由 宝泉薫編(別冊宝島Real21 2001年)P95~98〕。少女Mの名付け親もこの叔母で、新聞で未成年者を示す少女Aからヒントを得たという〔。 この時代に発売された少女ヌード写真集の多くは、まだヘアの生えてない局部はそのまま写し出されていることが多く、この写真集もその例外ではなかった(その1ヶ月後に普及版が発売)。翌年6月にビデオ『少女M・13歳』が大ヒットする。このビデオは、その後続々と発売されることになる少女ビデオの先鞭をつけた〔好奇心ブック36号 80年代AV大全 双葉社 P13 1999年〕〔特集アスペクト56 20世紀のアダルトビデオ アスペクト P3 1998年〕。当時の人気は凄まじく、最初の写真集3冊とビデオ2本で4億円近くを稼ぎ出した〔。そして少女Mは週刊プレイボーイを中心に、写楽、平凡パンチ、GORO、ビデオボーイ、ACTRESS、アクションカメラ等、当時の男性誌に次々と取り上げられ、何度も表紙を飾るなど一気にメジャーとなり、他のアイドルとは違う独特の存在感で注目された。84年には『スクラップ・ストーリー ある愛の物語』で主演、主題歌も歌う。この映画には嵐山光三郎、高田純次、糸井重里、レオナルド熊、安岡力也といった当時の著名人が多数出演しているが、田中みおは実年の14歳のヌードモデル役を演じており、フルヌードの場面や、ベッド・シーンも演じているため今となってはソフト化は不可能とされている〔少女Mを覚えていますか 〕。その時代は、それだけ少女の裸に対して寛容だった。ベッド・シーンでは官能の表情ができず、監督の若松孝二が隠れてて足をつねったりして、顔を歪ませて感じた演技をさせた。これについては、体験がないから演じられなかったと本人は弁解している〔 。この映画では報知映画賞で最優秀新人賞にノミネートされた〔ビデオボーイ 1985年3月号 英知出版 P7~10〕。また、この当時の自らについては次のように語っていた。 「私、人の顔色を伺いながら話すのってニガテなんです。その人にどう思われようと、自分のやりたいようにヤルッ。“ガマン”とか“忍耐”とか、そーゆー言葉も一切パス。スキゾ型人間の典型なんですよね。〔「84年フレッシュ選抜ユニーク新人大会」DUNK 集英社、1984年9月号、184頁-185頁〕」 その後、二年間のブランクを経て『週刊プレイボーイ』誌上で名前を読者応募で改名することにし、田中みおと命名。女優、歌手として活動することを宣言する〔WEEKLY プレイボーイ 1987年1月12号 P9〕。 また1984年に写真集『君はキラリ』が10万部を超える大ヒットになった同じロリータアイドルの諏訪野しおり(後に若葉しをりと改名)とは同じ事務所で、映画、テレビと何かと共演する機会が多かった。 田中みおとして何本かの映画、テレビドラマに出演したが、1990年代に入ってからの活動記録は確認できるもので『週刊プレイボーイ』(1990年4月17日号)のグラビアのみである。事務所によると、本人に芸能活動をする気が全くないので仕事は全て断っているとのこと〔。 姉と弟と妹の四人姉弟であるが〔、少女Mの妹という触れ込みでデビューした美少女Nは妹ではなくて、従姉妹である。 趣味に読書、ビリヤード、特技はスキンダイビング、スポーツは他にテニス、剣道、水泳、ゴルフとスポーツ好きである〔あなたへ・・・私は「不等記号」-Mにさよなら(山手出版 1985年)P162〕。チェッカーズのファン〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中みお」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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