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田中 将大(たなか まさひろ、1988年11月1日 - )は、日本の兵庫県伊丹市出身のプロ野球選手(投手)。現在は、MLBのニューヨーク・ヤンキースに所属している。 からはMLB移籍に伴い活動拠点を北米に移し、現地の代理人はエクセル・スポーツ・マネージメント社となっている。 連続勝利のギネス世界記録保持者。妻は、歌手でタレントの里田まい。 2016年、経済誌「フォーブス」にて30歳未満を代表する「30アンダー30」の芸能・スポーツ部門の30人に選ばれた。〔http://www.sanspo.com/sports/news/20160227/spo16022708480001-n1.html〕 == 経歴 == === プロ入り前 === 兵庫県伊丹市出身(生まれは徳島県)。伊丹市立昆陽里小学校1年時に軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始め、4番・捕手として坂本勇人とバッテリーを組んでいた。打撃練習では左翼方向への本塁打を連発し、しばしば同じ方角にある校舎の窓を直撃しかけたという。小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。伊丹市立松崎中学校時代にボーイズリーグの「宝塚ボーイズ」で硬式野球を始めると強肩を買われて投手も兼任するようになり〔週刊ベースボール【別冊春季号】第78回選抜高校野球大会完全ガイドより。〕、3年時には関西南選抜チームに選出された。「野球の練習となるとその熱心さからか、しばしば周りから怖がられていた」と当時を知る人物は語っている〔TBS系列『バース・デイ』2008年6月放送〕。 「宝塚ボーイズ」の監督・奥村幸治によると、当初、高校は地元関西圏の有名校に行く予定だったが諸事情から断念し、奥村の紹介で駒澤大学附属苫小牧高等学校を見学。当時の野球部キャプテンの人柄に惹かれ進学を決意したとの事。 駒大苫小牧高校に進学後は本格的に投手に専念するようになり、2年夏の第87回全国高等学校野球選手権大会では主戦投手として140km/h前後のストレートとスライダー、フォークボールを武器に57年ぶり史上6校目の大会2連覇に貢献。決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測した〔田中、9回気迫の3K150キロ - 朝日新聞(2005年8月21日)〕。大会後、AAAアジア野球選手権大会の日本代表に2年生では堂上直倫と2人だけ選出され優勝。 2年秋からは香田誉士史が監督に就任後初のエース兼主将となり〔、秋季北海道大会では堂上を参考にフォーム改造した〔打撃でも決勝を含む5試合中4試合で本塁打を放つなど活躍。決勝では過去最多の13点差〔駒大苫小牧、力の差示し夏・秋連覇 決勝13点差は最多 - 朝日新聞(2005年10月09日)〕で優勝した。その後行われた第36回明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出して優勝し、第78回選抜高等学校野球大会では優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。 史上2校目の夏3連覇が懸かった第88回全国高等学校野球選手権大会では大会直前から体調を崩したが〔駒苫田中「悔いありません」/夏の甲子園 日刊スポーツ、2006年8月22日。〕、チームは決勝に進出。早稲田実業との決勝戦では3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。チームは1-1で引き分け、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった〔駒苫田中V3へ執念165球/夏の甲子園 日刊スポーツ、2006年8月21日。〕。再試合でも1回途中から登板し、7回3分の1を投げ3失点に抑えたが、チームは3対4で敗れる。自身が最後の打者となった(空振り三振)〔駒苫、公式戦連勝48で止まる/夏の甲子園 日刊スポーツ、2006年8月21日。〕〔駒苫、夏3連覇は見果てぬ夢/夏の甲子園 日刊スポーツ、2006年8月21日。〕。甲子園通算成績は春夏12試合の登板で8勝無敗だった。 大会後は日本高校野球選抜としてアメリカ遠征に参加〔本場スカウトから熱い視線 斎藤、田中ら日本投手陣 47NEWS、2006年9月1日。〕。 9月25日の高校生ドラフト会議において、北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスから1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得〔田中は抽選で楽天に交渉権 プロ野球高校生ドラフト 47NEWS、2006年9月25日。〕。同月30日に開幕した秋ののじぎく兵庫国体では1回戦で13奪三振、無失点に抑える〔駒大苫小牧など8強へ 兵庫国体が開幕 47NEWS、2006年9月30日。〕など決勝までの3試合24イニングを無失点で抑えるも、10月4日の早稲田実業との決勝戦では甲子園でも投げ合った斎藤佑樹に適時打を浴び、1-0で敗れ準優勝〔早実・駒苫に大きな拍手 国体高校野球に7200人 asahi.com、2006年10月4日。〕。11月2日には楽天と仮契約を結び、背番号は18に決定。 高校時代の公式戦通算成績は57試合の登板で35勝3敗、計329回2/3を投げ、防御率1.31、奪三振数は横浜高校の松坂大輔を上回る458奪三振を記録。周囲からは「怪物」「世代最強エース」などと評された。打者としても高校通算13本塁打を記録している〔【米国はこう見ている】ヤンキースの“エース”田中将大はメジャー初打席に無関心! 米メディアの取材にバッティングは「怖い」と回答 Full-count、2014年5月9日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中将大」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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