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田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年(大正14年)4月29日 - 2000年(平成12年)2月26日)は、日本の小説家、翻訳家、随筆家。 東京市千駄ヶ谷生まれ。牧師だった父、田中種助の転勤で広島県呉市東三津田町で育つ。 ==来歴・人物== 旧制西南学院中学入学後、母親の意向で2年から、かつて入試に失敗した、実家近くの広島県立呉第一中学(現・呉三津田高校)の編入試験を受け、転校。同校を卒業後、旧制福岡高校を繰上げ卒業して出征し、中国南京など各地を転戦。敗戦直前にアメーバ赤痢の疑いで野戦病院に移送となり終戦。呉市に戻り米軍基地の兵舎のストーブマンなどをしたあと、1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず、除籍となる。 在学中からストリップ劇場での演出助手(のちに、コメディアンとして出演するようになる)や、バーテンダー、啖呵売、易者などの職を渡り歩き、その経験を元に踊り子や客達との交流を描いたエッセーで注目された。進駐軍用将校クラブでバーテンダーをしていた時、酒瓶がなくなる事件があり、窃盗容疑で起訴された。勝手に酒瓶を開けて飲んではいたが、持ち出してはいないと主張したが、簡易裁判所で罰金刑を受けた。 1950年に進駐軍横田基地で職を得る。1954年より米軍の医学研究所で化学実験の仕事をし、その傍ら、推理小説の翻訳家として、主にハードボイルド作品を多数、翻訳する。レイモンド・チャンドラーの翻訳は、主に清水俊二が手がけていて「定番」となっているが、田中も一部の作品を訳している。米軍を辞職して後は、ほとんど翻訳はしていない。 1952年『新潮』に「上陸」を発表、66年に「どうでもいいこと」を『文學界』に発表しているが、1967年以降、『オール讀物』『小説現代』などに大衆小説を発表し始め本格的に作家活動に入る。1971年、『自動巻時計の一日』で直木賞候補。1979年、『ミミのこと』『浪曲師朝日丸の話』の2作品で直木賞を受賞。ただしこの二作を雑誌に発表したのは1971年で、単行本『香具師の旅』に入ったため候補になったもので、異例である。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集『ポロポロ』(表題作は77年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞した。 禿げ頭に手編みの半円形の帽子をかぶり、夏には半ズボンにサンダル履きというラフな格好を好み、「コミさん」の愛称で親しまれる。すっとんきょうな表情で、またウィットに富んだユーモアで場を和まし、往年の深夜番組『11PM』をはじめとして、テレビドラマ、映画、CMといった様々な場面で活躍。ピンク映画でカラミを演じた事もある。 赤ちょうちんがぶら下がる酒場を庭とするような庶民派で、新宿ゴールデン街(東京都)の常連としてならした。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画をみて、夜は家か飲み屋で飲む、という日常を送っていた。ゴールデン街では、10軒は飲み歩いたという。映画の試写会がない週末には、目的もなくバスに乗っていた。海外に滞在したときも、毎日バスに乗っていた。 2000年2月26日(日本時間2月27日)、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスにて肺炎のため客死した。74歳没。 「ボチボチ書いているだけ。いいかげんな男なんです」と、飄々としていながら自虐的ともとれるような独特の醒めた味わいの言葉を残す。作風のほうもそうしたスタンスに準じたものであった。毛糸で編んだ帽子がトレードマークであった。 次女は小説家の田中りえ。野見山暁治は妻の兄(義兄)。筑紫哲也はいとこ甥(母の姉の孫)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中小実昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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