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田中玄宰 : ウィキペディア日本語版
田中玄宰[たなか はるなか]

田中 玄宰(たなか はるなか)は名家老田中正玄(まさはる)四世の孫。通称は小三郎、加兵衛、三郎兵衛。12歳で家を継ぎ、天明元年(1781年)に34歳で家老に任じられた後、会津藩五代藩主松平容頌(かたのぶ)公、六代藩主容住(かたおき)公、七代藩主容衆(かたひろ)公、三代の藩主に仕えた名宰相である。当時会津藩に打撃を与えた「天明の大飢饉」、利根川や荒川の改修、江戸城の「手伝い普請」、江戸会津藩邸の消失などの窮地を乗り越えるため、財政、産業、軍制、教育など藩政の全てにおいて改革を断行した。当時、会津藩は天明の大飢饉によって財政も窮乏化しており、玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して家老を辞職した。その間、兵学や経済などについて研鑽、研究して一年後復権の際に藩政の大改革「天明の大改革」建議書を上申、提言し「余はこれを可とするものなり」とお墨付きをもらい、改革の実行に着手し、大きな成果をあげた。また、玄宰の改革によって庶民の生活向上、殖産興業の奨励が図られ、農民や町人に養蚕・薬用人参・紅花・藍・棉等の栽培・漆器・酒造り・絵ろうそく等の栽培や製造を推奨、実行し、今日の伝統産業の基礎が築かれた。また、教育改革における最大の功績は藩校日新館の創設であり、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。隣藩・白河藩主で老中も務めた松平定信は家臣に対し、「会津の田中三郎兵衛に笑われることなかれ」と訓戒するほど、玄宰を高く評価していた。さらに政策の一つとされる1808年の「樺太警備」は、ロシアの攻撃に備えて約1,600名の藩士が現地での警備にあたり、その活躍に幕府をはじめ諸藩から絶賛を得た。文化5年(1808年)、樺太での会津藩の北方警備の最中61歳で死去。遺言は「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」であり、遺言通り、墓はそれらを見渡せる小田山の山頂に設けられた。家督は長男玄成が相続するも早世し、一瀬家の養子となっていた次男・玄古が帰家してその跡を相続した。幕末には土佐玄清、一門には第二次共産党委員長で、のちに転向し政治活動家となり、昭和天皇のインテリジェンス、 国際的フィクサー、右翼の巨魁といわれた田中清玄がいる。
== 田中玄宰をあつかった作品 ==

* 中村彰彦『花ならば花咲かん』(PHP研究所)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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