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田中純一郎 : ウィキペディア日本語版
田中純一郎[たなか じゅんいちろう]

田中 純一郎(たなか じゅんいちろう、1902年12月3日 - 1989年3月26日)は、日本の映画史家映画評論家編集者である〔コトバンクサイト内の記事「田中純一郎 」の記述を参照。〕。本名松倉 寿一(まつくら ひさいち)〔。『日本映画発達史』で知られる〔。
== 人物・来歴 ==

=== 映画史家として ===
1902年(明治35年)12月3日群馬県新田郡生品村〔田中純一郎『秘録・日本の活動写真』(本地陽彦編、ワイズ出版、2004年12月)に記載のプロフィールの記述を参照。〕(のちの同県同郡新田町、現在の同県太田市新田地区)に生まれる〔田中純一郎『日本映画発達史 1 活動写真時代』(1975年12月、文庫版)のカバー、あとがき(p.421-423)の記述を参照。〕。
大正初年に上京し、東京市神田区(現在の東京都千代田区)の旧制中学校に通う〔。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現在の東京都中央区)の糸屋に奉公に出されてしまう〔。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうようなシネフィルで、映画雑誌によく投稿していた〔。当時の投稿仲間には、芥川柳三(のちの飯島正)、古川緑波がいた〔。1919年(大正8年)、16歳のころに流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよう〔。東洋大学に在学中に批評家としてデビューし〔、のちに同学を卒業した〔。
1925年(大正14年)に雑誌『映画時代』、1930年(昭和5年)に雑誌『キネマ週報』をそれぞれ創刊した〔。
第二次世界大戦中は東宝映画に在籍し地方巡回映画等を手がけ、1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)にかけて地方を巡回しながらも、幻の撮影技師土屋常吉の足跡を追った〔『証言者の居場所』、新藤兼人、『活動写真がやってきた』, p.284.〕。終戦後、『キネマ旬報』編集長、日本大学芸術学部講師を歴任した〔。
1957年 (昭和32年)、大著『日本映画発達史』の第1巻「活動写真時代」、第2巻「無声からトーキーへ」、第3巻「戦後映画の解放」を中央公論社(現在の中央公論新社)から上梓する。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)にかけて、『キネマ旬報』誌に『秘稿日本映画』を連載する〔。
1966年(昭和41年)、『日本映画発達史』等の執筆による功労により藍綬褒章を受章〔、1968年(昭和43年)、『日本映画発達史』の第4巻「史上最高の映画時代」を上梓、同年12月1日、「映画の日」特別功労賞を受賞〔。
1976年(昭和51年)7月、文庫版のみで『日本映画発達史』の第5巻「映像時代の到来」を上梓、同シリーズの完結をみる。
1985年(昭和60年)12月、松竹の創業90年に際し、大著『松竹九十年史』を編む。同書は、新藤兼人の指摘に拠れば、経営者の視点にのみ拠るものではなく、第二次世界大戦の戦時下の松竹の時代遅れであった事実に触れ、客観的な評価を下しているという〔『証言者の居場所』、新藤兼人、『活動写真がやってきた』, p.285.〕。
1989年(平成元年)3月26日、死去〔。満86歳没。晩年は東京都練馬区南大泉に居を構え、都心・銀座地区での試写に出向くために電車の定期券を携えていた〔『証言者の居場所』、新藤兼人、『活動写真がやってきた』, p.279-280.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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