|
田中 茂樹(たなか しげき、1931年4月7日 - )は、日本の元マラソン選手、日本人初のボストンマラソン優勝者〔昭和毎日:ボストン・マラソンで田中茂樹優勝 - 毎日jp(毎日新聞) 〕。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。 == 来歴 == 中国山地山間の農村・敷信村生まれ。14歳の時、国民学校での朝礼中、130キロ離れた広島市に投下された原爆の閃光を見る。まもなく大やけどを負った被爆者が、田中の村にもたくさん運び込まれ「アメリカは人殺しの国だ」と憎悪を募らせた。学校までの4キロの砂利道を走って通ったことがランナーの原点。広島県比婆西高等学校(現・広島県立庄原実業高等学校)在学中の1949年から中国駅伝で三年連続区間賞を獲得するなどで頭角を現し、各地のロードレースで活躍〔『広島スポーツ100年』、中国新聞社、1979年、206-207頁〕〔河野徳男『広島スポーツ史』、財団法人広島県体育協会、1984年、211頁〕。1951年、海外派遣選手の予選会になった山口の大会で2時間28分16秒の戦後の世界最高記録をマーク〔、19歳で日本が初参加したボストンマラソン代表の一人となった〔福岡国際マラソン プレーバック|第5回(1951) 〕。日本は戦後初のロンドンオリンピックには出場が許されず、世界的な規模の大会に出るのはボストンマラソンが初めてで、日本に対する関心は薄かった。マラソンチーム監督の岡部平太は「民族の誇りを復活させるには、アメリカで国民的行事であるボストンマラソンを制するのが1番」と考えた。田中もアメリカはまだ敵国のイメージを持っていた。 ボストン到着後、国防総省の関係者から連行され尋問を受ける。多くの被爆写真を見せられ「これは本当なのか」と質問された。翌日のアメリカの新聞は田中を「アトムボーイ」、全滅したと思われた広島から選手が出場する、と大きく書きたてた。当時の多くのアメリカ人の日本に対する認識はこの程度だった。4月19日レース当日、田中は「原爆で負けたと言われたくない」と奮起し2時間27分45秒で見事優勝を飾った。また他の日本人選手も3人も入賞。田中は広島の山奥育ちで原爆と関係ないが〔高橋進『マラソン百話』ベースボールマガジン社、1997年、166-167頁 ISBN 978-4583034430〕「19歳の原爆ボーイに栄冠」「敗戦国の日本が戦勝国に乗り込んでの勝利」などと田中優勝を伝えるビッグ・ニュースが世界を駆け巡った 敗戦で肩身の狭い思いをしていたアメリカ在住の日本人は涙を流して喜び、敗戦以来アメリカの地で「おれは日本人だ」と心の底から叫ぶことが出来たのは、この時が初めてであったろうといわれる。その夜田中は黒人達にバーに連れ出され「お前は凄い。俺達は白人には勝てない」祝福された。田中の優勝は日本人としてベルリンオリンピックで優勝した孫基禎を除けば、日本人選手の主要マラソン優勝第1号であり〔サイト - 三井グラフ バックナンバー|三井広報委員会 2000年特別企画 20世紀日本スポーツ界の主役 〕、戦後の日本陸上界の空白を一気に埋めた優勝で、日本人として戦後の国際舞台での初めての優勝であったため、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を大いに勇気づけ国民的英雄ともなった〔『激動のスポーツ史(7) 陸上競技』ベースボール・マガジン社、1989年、68頁 ISBN 4-583-02777-X〕。また日本マラソンの国際舞台進出に先鞭をつけた〔。帰国後広島駅で見つかり、無理やり木炭トラックに乗せられ故郷の敷信村まで凱旋パレードとなった。沿道は小旗を振る人達で溢れた。連日の歓迎会は地獄だったという。 日本の戦後オリンピック復帰となるヘルシンキオリンピックが翌年に迫り、オリンピックも勝てる、と言う周囲の重圧が田中を苦しめた。のちに「円谷幸吉の気持が痛いほど分かるよ」と語った。日本大学に進んだが膝に軟骨が出る故障を起こし、回復が遅れ練習不足のまま1952年、代表選考レースとなった毎日マラソン(現・びわこ毎日マラソン)に出場したが惨敗。オリンピック出場は成らず。故障の悪化で大学時代に競技生活を終え、ボストンマラソン優勝を唯一の勲章に現役を退いた。 その後は西武百貨店などに勤務し、日本陸上競技連盟理事、全国マラソン連盟会長などを務め、1999年には地域ランナーを育てる陸上クラブ「東京ハリアーズ」を旗揚げした。 ボストンマラソンの大会本部が出している公式歴代優勝者名簿の欄には「Hioroshima Japan」と田中一人だけが国名以外に出身地まで記載されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中茂樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|